夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

それは何時頃だろうか?

2017年03月31日 17時14分10秒 | 日記

人類自治の世が強制終了させられて神治の時代が始まるのは何時頃だろうか?と言う疑問には二つの予測手段がある。

ひとつは黙示録の4人の騎士の登場、もうひとつは神の安息の時つまり第7日の終了である。

第7日の終了について最近Oh!と思うものを見た。Youtubeに Agafia と言う女性の記事がある。どうやら彼女の親の時代にギリシャ正教の狂気の司祭か何か指導者のような者から集団で逃れてロシアの奥地、タイガと呼ばれる地方ではないかな?、そこで密かに暮らした人々の最後の生き残りのような人のようだが、彼女が書簡を書く場面があった。そこで彼女が記す・・アダム以来7522年!

まあ、途中ノアの洪水があったりしたので正確な記録は失われたのかもしれないが、ともあれ【神が安息に入った、つまり何もしない】日はもう終わった。今は既にこの地球社会に見えない様で手を下し始めているのかもしれない。・・・だってそうだろ、ゴミ屋敷、孤独死の後始末をするには先ずもってその家の中に入らなければ事は始まらない。始末をする人が家に入ったとしても目視点検、調査、分別、工事、かれこれ結構な手間と時間がかかる。

主イエス・キリストが再臨して栄光の座について、我々は分別されつつあるのかもしれない。地上に残してよいモノと廃棄するモノとに!

黙示録の騎士についてはこうである。

6:1 羔羊その七つの封印の一つを解き給ひし時、われ見しに、四つの活物の一つが雷霆のごとき聲して『來れ』と言ふを聞けり。 
6:2 また見しに、視よ、白き馬あり、之に乘るもの弓を持ち、かつ冠冕を與へられ、勝ちて復勝たんとて出でゆけり。 
6:3 第二の封印を解き給ひたれば、第二の活物の『來れ』と言ふを聞けり。 
6:4 かくて赤き馬いで來り、これに乘るもの地より平和を奪ひ取ることと、人をして互に殺さしむる事とを許され、また大なる劍を與へられたり。 
6:5 第三の封印を解き給ひたれば、第三の活物の『來れ』と言ふを聞けり。われ見しに、視よ、黒き馬あり、之に乘るもの手に權衝を持てり。 
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6:6 かくてわれ四つの活物の間より出づるごとき聲を聞けり。曰く『小麥五合は一デナリ、大麥一升五合は一デナリなり、油と葡萄酒とを害ふな』 
6:7 第四の封印を解き給ひたれば、第四の活物の『來れ』と言ふを聞けり。 
6:8 われ見しに、視よ、青ざめたる馬あり、之に乘る者の名を死といひ、陰府これに隨ふ。かれらは地の四分の一を支配し、劍と饑饉と死と地の獸とをもて人を殺すことを許されたり。

この騎士たちの登場を示す事件が人類がそれまで経験しなかった事態、世界大戦だと言うものみの塔聖書冊子協会の意見はその通りだと思う。実際我々が見て居る世界は例えば”『小麥五合は一デナリ、大麥一升五合は一デナリなり、油と葡萄酒とを害ふな』 ”と言われる通り、多くの人々にとって必需品が欠乏する一方で贅沢品が溢れている、つまり貧富の差の拡大は留まるところを知らない。さらに世界大戦の他に各地で様々なテロ、事故、環境汚染等が起こり”青ざめたる馬に乗る【死】”の時代でもある。マタイ伝は言う、

24:29 これらの日の患難ののち直ちに日は暗く、月は光を發たず、星は空より隕ち、天の萬象ふるひ動かん。 
24:30 そのとき人の子の兆、天に現れん。そのとき地上の諸族みな嘆き、かつ人の子の能力と大なる榮光とをもて、天の雲に乘り來るを見ん。  
24:31 また彼は使たちを大なるラッパの聲とともに遣さん。使たちは天の此の極より彼の極まで、四方より選民を集めん。 
24:32 無花果の樹よりの譬をまなべ、その枝すでに柔かくなりて葉芽ぐめば、夏の近きを知る。 
24:33 かくのごとく汝らも此等のすべての事を見ば、人の子すでに近づきて門邊に到るを知れ。 
24:34 誠に汝らに告ぐ、これらの事ことごとく成るまで、今の代は過ぎ往くまじ。 
24:35 天地は過ぎゆかん、されど我が言は過ぎ往くことなし。

宗教に名を借りたテロ、拝金による地球の破壊汚染、子供達の犠牲、いつ核爆弾を使ってもおかしくない状況、・・・もう人間の知恵で処置できる限界を越えているのではないか? 黙示録に描かれた前兆の全てをもう見て居るのではないか?

 

 

 

 

 

 

 


モダンギターとリュート

2017年03月30日 22時50分43秒 | 日記

クラシックギターとリュート、バロック・リュートだが、その両方を弾いていて感ずることであるが、ギターは現世の音楽を演奏する現世の楽器、リュートはあの世の音楽を表現するあの世の楽器。

リュートの音楽は一言で言えば感動の起伏が少なく退屈である。どのような退屈さか?と言えば『嘆きも叫びも悲しみも苦痛もない、それらのものが過ぎ去った世、そこで過ごす春の午後、或は静かな昼下がり、静寂の夜中』のような世界の楽器であり音楽だ。Tombeauと言う死者を悼む音楽でさえ安らぎをおぼえる不思議な音楽だ。

一方、ギターは情感をそのままぶつける楽器で、表現力もある。リュートの音がどちらかと言えば響きに近いがギターの音はサスティーンが効く、従ってリュートよりもよく旋律を唄う。歌わせなければ音楽にならない。ヴァイスにロジー伯に手向ける嘆きの曲がある。元々バロック・リュートの曲だが現在ではギターで演奏される方が多いようだ。そのギターでの演奏を念頭にリュートでの演奏を聴くとまるで印象が異なる。

このような経験から私はリュートの演奏を聴く事に興味がない、聴くならギターである。しかし、自分でやるならリュートだ。ギターの場合は『弾いた、・・で、それが何?それでどうしたの?』になる。リュートの場合は『ああ面白かった、有難う、また明日よろしくね』となる。


天国、極楽、パラダイス、あの世について・・補足

2017年03月30日 21時26分06秒 | 日記

 前記事で所謂天国、極楽浄土、パラダイス、あの世の入口まで行って戻って来た人の話も偶にある、それは多分聖書黙示録に予告記載されている神の安息の7日目が終了して総てが新しくされた世界を垣間見て戻って来たのであろうと書いた。

 釈然としないところがあった。死者に時間間隔はないからその世界に行くのは時間のワープであると無理なく理解できるが戻るについてはこちら側の世界と同調できないのではないかな?と思ったわけである。

 このブログのどこかに私は夢が殆ど百発百中に当たる、予知夢を見る、と書いている。今でも当たる。それが頭に浮かんだ。・・『そうか、予知夢が当たる事から人生は決まっているのだ』と思うようになったが、世界も行く末は決まっている、シナリオは既にあるのだ、神が『人々の眼から涙を拭って下さる』世界はもう決まっているのだ、死者はそこに到着する、彼、彼女はそれを予知夢として幻視するのだ。


聖書に謂う天国と仏教の極楽と下世話に言うあの世について

2017年03月29日 19時04分04秒 | 日記

最近ジェームズ・ヴァン・プラグ氏著、中井京子氏訳の【天国との会話】を読んで非常に大事な事が閃いたので書き留める。

その4章【死・・故郷への旅路】、5章【霊界】に人は死後【アストラル体】なるものを身にまとってあの世に行き、様々な指導を受けながら生きる、その世界は今我々が生きている世界と同じく実態がある、と言ったような内容である。

そこでふと疑問が浮かんだ・・・聖書と違うのではないか?聖書は徹頭徹尾地上世界の事を述べている、例えば創世記の1章はこう述べる。

1:26 神言給けるは我儕に象りて我儕の像の如くに我儕人を造り之に海の魚と天空の鳥と家畜と全地と地に匍ふ所の諸の昆蟲を治めんと 
1:27 神其像の如くに人を創造たまへり即ち神の像の如くに之を創造之を男と女に創造たまへり 
1:28 神彼等を祝し神彼等に言たまひけるは生よ繁殖よ地に滿盈よ之を服從せよ又海の魚と天空の鳥と地に動く所の諸の生物を治めよ 
1:29 神言たまひけるは視よ我全地の面にある實蓏のなる諸の草蔬と核ある木果の結る諸の樹とを汝等に與ふこれは汝らの糧となるべし 
1:30 又地の諸の獸と天空の諸の鳥および地に匍ふ諸の物等凡そ生命ある者には我食物として諸の靑き草を與ふと即ち斯なりぬ  
1:31 神其造りたる諸の物を視たまひけるに甚だ善りき夕あり朝ありき是六日なり

ここには神が人の死後行くどこかを想定しているような事は一切書いてない。さらにダニエル書には次のようにある。

12:13 汝終りに進み行け汝は安息に入り日の終りに至り起て汝の分を享ん 

人は死んで【日の終わり】に報いを受ける、ような記述である。どこにも天国などと言う事は書いてない。一方新約聖書にはそれらしい記述が見える、例えばルカ伝には下記のようにある。

23:41 我らは爲しし事の報を受くるなれば當然なり。されど此の人は何の不善をも爲さざりき』 
23:42 また言ふ『イエスよ、御國に入り給ふとき、我を憶えたまえ』 
23:43 イエス言ひ給ふ『われ誠に汝に告ぐ、今日なんぢは我と偕にパラダイスに在るべし

パラダイスとは天国のことか?あの世の事か?しかしまたマタイ伝には次のようにも書かれている、曰く

25:31 人の子その榮光をもて、もろもろの御使を率ゐきたる時、その榮光の座位に坐せん。 
25:32 かくてその前にもろもろの國人あつめられん、之を別つこと牧羊者が羊と山羊とを別つ如くして、 
25:33 羊をその右に、山羊をその左におかん。 
25:34 ここに王その右にをる者どもに言はん「わが父に祝せられたる者よ、來りて世の創より汝等のために備へられたる國を嗣げ。

さらに黙示録は次の様に言う、

21:3 また大なる聲の御座より出づるを聞けり。曰く『視よ、神の幕屋、人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みづから人と偕に在して、 
21:4 かれらの目の涙をことごとく拭ひ去り給はん。今よりのち死もなく、悲歎も號叫も苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり』 

どこか天空か宇宙かに特別の場所が用意されていて人は死んだらそこに行くなどと、もしそれが神の意志ならばもっと直裁に書いていいはずである。

すると、上記書籍のアストラル体だの死に際して親しかった家族などが迎えに来るなどとは妄想に過ぎないだろうか?と思う。が、!かつて母に聞いた祖父の臨終の様子を想い出した。殆ど意識もうろうとなっている中、祖父は故郷を離れて以来一度も再会しなかったその父を見たのか『お父さん』と大きく叫び、眼から涙がほろほろとこぼれたと言う。その直後、見守っていた医師が『ご臨終です』と言ったとのこと。してみればジェームズ氏があながち荒唐無稽な事を言っているとも思えないし同様な記事は偶に目にする。

この書籍と聖書の記述とどのように同調できるだろうかと考えながら歯の治療に行った。施術の間、ボンヤリと空を見ながらある言葉が脳裏に浮かんだ・・・ワープ!そうだ、空間ではなく時間のワープだ!

神が創造の業を6日目に終えて7日目の休息にある。しかし聖書の記述と人類史を照合するとどうやらその7日目が尽きようとしている。人類知の社会が自壊し神が自ら手を下し始めると何が起こるか?

黙示録は言う、

20:13 海はその中にある死人を出し、死も陰府もその中にある死人を出したれば、各自その行爲に隨ひて審かれたり。

21:3 また大なる聲の御座より出づるを聞けり。曰く『視よ、神の幕屋、人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みづから人と偕に在して、 
21:4 かれらの目の涙をことごとく拭ひ去り給はん。今よりのち死もなく、悲歎も號叫も苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり』

近未来に【全てが新しくされた世界】が登場しそこでは死も嘆きも苦痛もない、所謂天国、極楽、パラダイス、あの世と我々が思っている世界が地上に姿を現わす。今の我々からはもうそう遠くない未来であろう。

しかし千年前に死んだ人は千年、墓の中で待たなければならない、或は安息に入っている・・この地上人間世界の時間の測り方で言えば。

ところが人は死ぬと【時間の感覚がない】、次に気が付くのは【海はその中にある死人を出し、死も陰府もその中にある死人を出した】その世界、まさに彼、彼女はそこに出されたのだ、つまり今の我々が待っているその【全てが新しくされて神が人と共に在る世】に出た、と言う事態である。つまり時間のワープで【死んだら天国に行く、昇天、極楽往生】となる。

偶々何かの間違いでそこから逆戻りした人があると、よく記事に見かける素晴らしい世界があの世である、と言う事になる。