”人間とは縦横高さの三次元空間に生き、時間とともに自己を成長変化させる4次元の存在である”とは高等学校の生物学の時間に先生が語られたことである。先生はまた、母親について諭された。”女は産み育てると言う多難な役割を与えられ、従って人間に付与される能力の大きな部分がそちらに配分されている。故に君らが長じて自分の母親のある方面の不足や未熟に気がついてもそれを侮ってはならない”・・・。どーだ、こんな深遠且つ花も実もある講義を出来る先生なんてざらには居ないぞ。
経験によってシナプス結合が強化されたり伸張することは犬やネコ、霊長類にあるかもしれない。しかしそれは単なる反射行動のための記憶ではあっても蓄積して新たな行動様式を編み出す記憶ではない。もし動物がそう言った能力を持っているならばいつか蹴飛ばされたネコは次に魚を盗む時に少し”経験によって計画的”に行動するはずである。結局、経験が蓄積され、そこから新たな行動様式を編み出す生き物は人間しかいない。ここに時間の概念が介在する。他は時間の概念を持たない三次元の生き物である。
時間軸上に無い記憶の想起様式とは・・・多分先生仰った”犬の記憶・・・帰宅したあなたを見て”あ、じゃったじゃった、んだげんジロどんじゃった(ああ、そうだった、うちの次郎さんだった!)”と”思い出す記憶”だろう。当の犬はあなたが不在の間、あなたを覚えていない、知らない、飼い主と言う概念もない。
もし人間の記憶がこの犬同様に”時間というタグがついていない記憶”であれば”事態に遭遇するまで引き出せない”、よって計画しての行動は有り得ない。この”時間の概念”がエデンにあったと言われている”知恵の樹”、知恵と言う実が成る樹だと私は考えている。
時間の概念さえなければ四苦八苦、煩悩などというものは一切ない。人は”瞬間””刹那”にしか生きない三次元の存在となる。偶然に遭遇するかもしれない災害や事故などの概念も起こらない、”苦”とは何か?”痛みとはどういうものか?”さえも知らない、あるのは刻々遭遇する事態でしかない。
しかしそれでは”地を従わせる”ことは出来なかった。人間を地球の管理者にしたからには想起し、推論し、計画し、実行し、検証し、経験を資料化する能力、一言で言えば管理能力が、別の言い方をすれば時間の概念を付与することが必要であった、それがエデンに”知恵の樹”があった、と言うことの意味である。しかしその実を食べることはその能力を地を治める目的ではなく、自分自身を治める為に使うことになり、既に準備されている”万全”を拒否し、それから離れることにしかならなかった。
つまり人は『神』から離れた、別次元に移行した。だから人類は今『神』を見ない、見えない、次元が違うから。人は自分自身の生存に関しては三次元の生きものであるほうが幸せだった。それが東洋で言う”放下”であり”無一物中無尽蔵”、また”笑う門には福来る”の”計らわない生き方”となる。
しかし、このように書いてみてもう少し詰めが足らないような気もする。ただ、すずめのように生き、ユリの花のように咲く、ならば実は”幸せ”と言う実感も、・・概念そのものが・・ないのではないか?私は楽器を演奏する、絵を描くのが趣味だが”ただ生きるだけ”からそういうものは生まれない、そしたら”人間”の存在意義がないではないか?と思う。
経験によってシナプス結合が強化されたり伸張することは犬やネコ、霊長類にあるかもしれない。しかしそれは単なる反射行動のための記憶ではあっても蓄積して新たな行動様式を編み出す記憶ではない。もし動物がそう言った能力を持っているならばいつか蹴飛ばされたネコは次に魚を盗む時に少し”経験によって計画的”に行動するはずである。結局、経験が蓄積され、そこから新たな行動様式を編み出す生き物は人間しかいない。ここに時間の概念が介在する。他は時間の概念を持たない三次元の生き物である。
時間軸上に無い記憶の想起様式とは・・・多分先生仰った”犬の記憶・・・帰宅したあなたを見て”あ、じゃったじゃった、んだげんジロどんじゃった(ああ、そうだった、うちの次郎さんだった!)”と”思い出す記憶”だろう。当の犬はあなたが不在の間、あなたを覚えていない、知らない、飼い主と言う概念もない。
もし人間の記憶がこの犬同様に”時間というタグがついていない記憶”であれば”事態に遭遇するまで引き出せない”、よって計画しての行動は有り得ない。この”時間の概念”がエデンにあったと言われている”知恵の樹”、知恵と言う実が成る樹だと私は考えている。
時間の概念さえなければ四苦八苦、煩悩などというものは一切ない。人は”瞬間””刹那”にしか生きない三次元の存在となる。偶然に遭遇するかもしれない災害や事故などの概念も起こらない、”苦”とは何か?”痛みとはどういうものか?”さえも知らない、あるのは刻々遭遇する事態でしかない。
しかしそれでは”地を従わせる”ことは出来なかった。人間を地球の管理者にしたからには想起し、推論し、計画し、実行し、検証し、経験を資料化する能力、一言で言えば管理能力が、別の言い方をすれば時間の概念を付与することが必要であった、それがエデンに”知恵の樹”があった、と言うことの意味である。しかしその実を食べることはその能力を地を治める目的ではなく、自分自身を治める為に使うことになり、既に準備されている”万全”を拒否し、それから離れることにしかならなかった。
つまり人は『神』から離れた、別次元に移行した。だから人類は今『神』を見ない、見えない、次元が違うから。人は自分自身の生存に関しては三次元の生きものであるほうが幸せだった。それが東洋で言う”放下”であり”無一物中無尽蔵”、また”笑う門には福来る”の”計らわない生き方”となる。
しかし、このように書いてみてもう少し詰めが足らないような気もする。ただ、すずめのように生き、ユリの花のように咲く、ならば実は”幸せ”と言う実感も、・・概念そのものが・・ないのではないか?私は楽器を演奏する、絵を描くのが趣味だが”ただ生きるだけ”からそういうものは生まれない、そしたら”人間”の存在意義がないではないか?と思う。