夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

香り・・・この世とあの世を繋ぐ

2016年02月29日 22時03分43秒 | 日記
 ノア、エホバの為に壇を築き諸々の清き獣と諸々の清き鳥を取りて燔祭を壇の上に捧げたり エホバそのうるわしき匂いを聞ぎたまいてエホバその心に謂いたまいけるは 我再び人の故に因りて地を呪うことをせじ・・・:創世記8章20節

 旧約聖書には他にも燔祭の事が述べられている。それについて、それは神の前によい香り・・・と書かれている。

 いろいろな宗教で香を焚くことを我々は知って居る。・・・これらの事を考え合わせると、どうやらこの人間世界と異界と間で『香り』だけは通じるような気がする。だから仏壇に線香を焚き花を供える。・・・とすると、・・・面倒くさがってホンコンフラワーを墓や仏壇に供えているのはその備える相手を見くびっていると言うことになろう。まさにその理由で私は父が母亡き後、どれほど母を悼んだかかを述べても信用しなかった。

東日本大災害・原発事故と倫理

2016年02月29日 20時45分32秒 | 日記
 東日本震災、津波の映像をまた見た。粛然たる思いである。遥か遠くの九州に住んでいるがこの惨状を見るにつけ『言い知れぬ後ろめたさ』を感じる。自分自身の日本人としての生き方、在り様が正しくなかったのではないか?・・・そう、私はこれを日本民族全てに対する神の不興の表現であると捉えている。

 物質的、感覚的、繁栄に驕り、或は不平をかこち、先ずもって第一にすべき神祀りとそれに連なる日本人本来の在り様、生き方を、さらには『人の世』に対する『責任と倫理』をおろそかにしたことに対する神の怒りの表明と捉えている、今も尚。とりわけ時の為政者が本来ならば自分たちの施政の間にこのような事が起った事について『自らの存在そのものの責任』と捉えるべきであった。

 然るに反省の弁を聞いた事もなければ徳性の責任を感じて自裁したと言う話も聞かない。延々と政治を生業として未だに生き、離合集散をやっている、クズ!君たちは人間のクズである。本来ならば政権にあった者全て自ら命を絶って以て生贄となって神の怒りを鎮めるべきであった。

 現代日本民族に欠けているもの、大東亜戦闘敗北の茫然自失によって忘れ去ったもの、『日本民族としての倫理観』をどうあっても回復しなければ津波に呑まれて遥か遠くの海底に沈んだ人々に対する申し訳が立たない。日本神界はその為にこそ東北の人々に思いもよらぬ犠牲を強いたのだ。我々九州人もそのことを考なければならない。

亭主の好きな赤烏帽子・・・香

2016年02月29日 12時17分40秒 | 日記
 昨年末、ふとしたことで仏壇屋さんからある線香を少し貰った。試しに焚いてみてハマってしまった。今では離せなくなった。以前お寺さんから貰った銀杏の枝を輪切りにしてそこに穴を開けて立てる。火皿の替わりにアワビの貝殻を使っている。一本燃えるのに約25分、楽器の練習に丁度の時間である。これ以上は集中力が弱まる。

 さりながら拙宅奥様はこのような雅な趣味には全く関心がない。考えていることはあそこのスーパーで魚を、あっちの店で野菜を、それにネコちゃんのおさかなビスケットがもう無かった、ミルクとちくわも買わなくっちゃ、そうそう今日のレッスンはマメちゃん姉妹だっけ・・・てなことばかり、超現実派である。日本陸軍の創始者 大村益次郎の妻女に似ている。この妻女、彼の偉大さが全く分からなかったらしい。要するにドン・キホーテとしか見て居なかったのだろう。

 ネコのオシッコ箱が廊下にあるので玄関を開けるとションベン臭い。ところが彼女は高校時代修学旅行で引いた風邪がもとで鼻が余り効かない。一方拙者は犬並に鼻が利く。そこで不愉快であるし客人に申し訳ないので玄関でこの香を焚いた、妻はそれを嫌った、煙たいと言うのだ。仕方がないから今では自室でのみ嗜んでいるがどうやら”亭主の好きな赤烏帽子”と上から目線で”ヘンなオジサン”程度にしか考えていないみたいだ。で、昨日こっそりネットで注文した。

 女と言う生き物は見かけで男を騙す。男は女を見てそれが、情感豊かで繊細な感覚や感情を持った、守ってやらなければ壊れそうなか弱い生き物であると錯覚する、錯覚して男独特の夢を膨らますアホな性格によって途方もない幻想に浸る・・ワアカワイイ!・・これで一巻の終わり。そして・・・バルザックの『谷間の百合』なる恋愛小説が出来たり素晴らしい絵画、彫刻、その他諸々の偉大な業績が上がって来たのである。・・・確かに神さんは正しかった・・・『男が一人で居るのはよくない、彼の為に助け手を造ろう!』とアダムを眠らせてそのあばら骨一本を取って女を造った。(女の性染色体はXXの形をしているが男のはXYの形、つまりどうやら男から何がが抜かれた感じがするではないか)

 


 

無功徳

2016年02月29日 08時27分34秒 | 日記
 後漢を建国した英雄 光武帝が修行僧に聞いた・・『私は仏塔を建て、寺院を建立し、僧侶を供養した。どのような功徳があるだろうか?』と。修行僧答える、『無功徳』。

色即是空 空即是色 色不異空 空不異色・・・の意味するところは 全ての現象の本質は『念』である、と言う事であるが、それを識ったからと言って何か変わるかと言えば何も変わらない。
 坐禅をして雑念を去り、さながら念そのものに成りきって自分の現象体が失せたかの如き心境に到達したとしてもどうと言う事にはならない、自己満足の世界である。何かの宗教で法悦なるものを実感したとしても悟りなる境地に至ったとしてもそれだけの事である。

 ただこう言った境地の産物として『自分』が無くなる、もう少し判り易く言えば『私』に執着しなくなる、その結果『我欲或は我執、執着』によって『養之如春』のような天地の理の正常な発露を邪魔しなくなる、結果身の周りの物事が正常安泰に動くと言う事態はあり得る。

 でも、『何となく小さい』。それによって宇宙の理を体得する処にまでは到らない。

 全宇宙はある『念』そのものであって、それが『人類に対して限定的に現象化』しているのが他ならぬ地球とその眷族である・・・それを解りやすく言えば、ある人の見える姿とその世界・・・その使用する物、什器備品、家、庭等一切はその人の本質である『念』が現象化した姿である・・・と識る事が人間にとっては大事な事である。偶々、その人類に対して限定的な現象化をしている宇宙の念の部分を聖書は『神』と称している。

 実際足の下に地を踏んでいながら、見えない空気を呼吸して生きていながら、我々は『神』の存在も力も信じない。救い難しとはこのことであろう。

 この救い難い心境で、核廃絶とかG7とかG20とか平和会議とかやっているのが人類であり、神の観点からすれば『右左理非曲直弁えのない野獣に等しい』苦々しい行為に違いない。ここが判れば黙示録や旧約聖書の予言部分が『野獣』と呼んでいるものが何か、『神を穢す名』とは何かが薄々解る。

私にとって最も難しい事

2016年02月29日 01時05分28秒 | 日記
 私にとって最も難しい事は見えない、聞こえない、肌に感じられない、味わえない、『神』に全幅の信頼を寄せて生きる事である。キザな表現だが、恐怖に震えながらもそうしようとしている、いや事実は最早そのような『神』に頼る以外には万策尽きた、と言う状況に追い込まれているのであるが・・・。

 思い出して見ればよく今迄生きて曲がりなりにも一家を存続出来た、危ない橋を何度も渡った。しかしその当時別に『神』に頼っているとは思っていなかった、渾身の自助努力をして来たと思う。が、しかし、冷静に評価すればとんでもない無謀な所業を重ねたと恐怖が湧き上がる。してみれば紙一重の危ない処で『神』は私を守護した、或は支えたのだろう。

 その経験を持っていながら尚、新しい日が始まる度にこの世に生きる事の恐怖が湧き上がって来る。・・昔、エジプトを脱出したイスラエル民族は追いかけて来た兵士達に崖っぷちまで追い詰められたが”海が割れる”と表現された現象によって干潟を歩いて対岸に辿り着いた。それを身を以て体験しながらなお、先導者であるモーセが留守をすると不安に駆られて金で仔牛の像を造った。

 偶像とは結局『神』が人間の五感六感に全く感知されないが故の不安の補償行為である。さらに、『宗教』もまたその偶像の一つの型である。

 昔、イエス・キリストは『何を食べようか、何を着ようか、と思い患うのを止めなさい。これらのものは世の人々がしきりに追い求めるものですが、天の父はあなたがたがこう言ったものを必要としている事を知って居られるのです』と説いた。『知っておられるのです』と言う説明に全幅の信頼を置くことが如何に難しい事か世の中を渡って来た者ならば解る。しかし『証拠』も『保証書』も何もない『空』、ただイエスなる人物が言った事を根拠に一身を投げ出す事こそが『信仰』なるものであり『結果』はそのような信仰に応じて現われる。

 それでも尚、その結果なるものが果たして『信仰』の故であったかは実際の処解らない、何故なら誰も『信仰』を以て寝転んで居たりはしない、問題や困難についてやはり渾身の努力をするはずのものだから。結論としてイエスは言った・・・『誰もこの子供達のようでなければ天の王国に入る事は出来ません』・・つまり『疑う』ことは即『信仰』を壊すことである。子供は純真で疑う事を知らない。賢しらに悪あがきしない。そこに天の配慮が現われる。

 考えて見れば『生活』や『将来』の事をあれこれ思い患って東奔西走七転八倒悪戦苦闘大汗かいて走り回り有もしない知恵なるものを振り絞るこそ愚かなれ。結局そのような行為が『神』の力が現われることを妨げ妨害するのである。もっと言えば、先回りして物事を思い煩うのは『神』の邪魔をしているのである。