戦後レジームからの脱却が首尾よく運び、大和心や日本本来の美しい国が実現の見通しとなるとき、保守層に内紛が起こるのではないか。それは例えば経済界から移民受け入れの要請、海外から国際社会の一員として難民受け入れの強要、国内発案で経済活性化の為の国営ギャンブル施設の提案、グローバリズムなる思想を背景に多様な文化の受け入れなる施策要請、等々であろうか。
現在、保守を標ぼうする人々が、政治家を含めてどのようなスタンスを取るか今は見えない。予想されるのは大きく分けて2系統、最も解 りやすい言葉を使えば親米と反米、或はリベラルと極右。但し一般大衆の表面的感想がそうであって親米乃至リベラルという表現は国際社会との協調路線、反米乃至極右とは日本独自の在り方に拘るという事になるのではあるまいか。
そのどちらの勢力も”国体の護持”を金科玉条にするに違いないが、一体何故どういう理由で日本人は国体の護持に拘って来たのか明確に説明できる人々がどれほどいるだろう?
前者はやがて国体護持と国際社会との協調の相容れぬ旗印に悩むようになろう。この勢力が仮に日本を支配するようになれば国体護持は単なる看板になり、日本は実質英国やタイのようになるに違いない。皇室や神道、神社は単に飾り、観光資源となるだろう。
一方後者の場合、何を以て思想的な背骨とするか模索しなければならないだろう。もし戦前の国家神道に戻れば失敗の教訓を学ばなかったという事になりかねない。
あらためて保守政治家、保守識者に問いたい・・・国体の護持に何の謂れあってあの当時一方的な報復法廷に服従したのか?釈明ひとつせず一方的な罪科有りの宣言に服してまで護る必然性があったのか?ここを明確にしない限り本当の意味での日本の回復はないと考える。
会津の武家の教訓に、”ならぬものはならないのです!”とあるようだがことごとに”議”を言う西欧キリスト教発祥教養主義を”進歩的”と刷り込まれている社会に在ってこの教訓が実質的な力を持つ謂われを明らかにしなければならない時が来ると思う。
何物にも惑わされず日本が本来の在るべき道を躊躇なく見極める思想的な背骨についてはこのブログの最初の方に書いた積りだ。
Sh'ma Yis'ra'eil Adonai Eloheimu Adonai echad
現在、保守を標ぼうする人々が、政治家を含めてどのようなスタンスを取るか今は見えない。予想されるのは大きく分けて2系統、最も解 りやすい言葉を使えば親米と反米、或はリベラルと極右。但し一般大衆の表面的感想がそうであって親米乃至リベラルという表現は国際社会との協調路線、反米乃至極右とは日本独自の在り方に拘るという事になるのではあるまいか。
そのどちらの勢力も”国体の護持”を金科玉条にするに違いないが、一体何故どういう理由で日本人は国体の護持に拘って来たのか明確に説明できる人々がどれほどいるだろう?
前者はやがて国体護持と国際社会との協調の相容れぬ旗印に悩むようになろう。この勢力が仮に日本を支配するようになれば国体護持は単なる看板になり、日本は実質英国やタイのようになるに違いない。皇室や神道、神社は単に飾り、観光資源となるだろう。
一方後者の場合、何を以て思想的な背骨とするか模索しなければならないだろう。もし戦前の国家神道に戻れば失敗の教訓を学ばなかったという事になりかねない。
あらためて保守政治家、保守識者に問いたい・・・国体の護持に何の謂れあってあの当時一方的な報復法廷に服従したのか?釈明ひとつせず一方的な罪科有りの宣言に服してまで護る必然性があったのか?ここを明確にしない限り本当の意味での日本の回復はないと考える。
会津の武家の教訓に、”ならぬものはならないのです!”とあるようだがことごとに”議”を言う西欧キリスト教発祥教養主義を”進歩的”と刷り込まれている社会に在ってこの教訓が実質的な力を持つ謂われを明らかにしなければならない時が来ると思う。
何物にも惑わされず日本が本来の在るべき道を躊躇なく見極める思想的な背骨についてはこのブログの最初の方に書いた積りだ。
Sh'ma Yis'ra'eil Adonai Eloheimu Adonai echad