夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

主婦業

2012年05月31日 12時22分41秒 | 日記
 『これからゆっくりと風呂にはいり風呂を洗いやっとのんびりできる。それにしても家事がこれほど手間だとは知らんかった。母さんは仕事をしているにしてはよくがんばった、がんばっている。ただ、食事は父さんにダメージを与えた可能性もあるな。しかし、それも縁だから仕方あるまい。』
・・・これは息子のメール、事情あってここ一年ばかり稼ぐ仕事と主婦業とヒーラーを掛け持ちしている。
 生活に行き詰まって単身赴任に出たのはもう15年も前になる。気が着いたら”最愛の??”車を手放さなければならなかった。まあ、また買えばいいさ、と思いながらついにその機会がないままもう枯葉マーク寸前になってしまった。運転技術は衰えていないが注意力は衰えた。現在の夢は911に枯葉マークをつけて北松浦半島ヘヤピン・急坂・離合困難道路をぶっ飛ばすことである。無理かなアー。
 最後の3年は佐賀のド田舎で民家を借りて息子と図面の仕事をした。三度のメシは早く気が向いたほうか、空腹に耐えかねたほうがやった。互いに俺のほうが上手であると自慢しながらやった。偶にくる妻に言わせると買い物が下手であるとのことであった。風呂は薪で焚くボイラだったので雨の日は傘をさしながら交代でやった。お互いに相手を下手くそだと貶しながら焚いた。ここ数十年、最後に私が入る。理由はミズムシを移されては迷惑と言うことによる。必然的に洗濯を担当することになる。洗濯ものの干し方で息子と意見があわなかった。玄関近くにそういう品の無い干し方をしては見苦しい、と言うのが私の意見、別段こだわるほどのものでもあるまい、と言うのが息子の意見。妻は当然ながら今は邪魔モノでしかない私の意見を無視した。
 洗濯モノ干しと言う行為はしかし、中々面白いものである。如何に干せば最も乾きが早いか、外から見て見苦しくなくカッコいいか、など考えながらやると結構スリリングではあった。女ものなどはこういうかけ方ははしたない、などと考えながら、なーるほど、こういう作りになっているのか等々勉強になった。
 田舎の3年の前は都会で、単身後半の3年があった。これは息子が学校に入ったので同居になったわけである。朝夕の食事は私がやった。弁当も作った。会社を5時に退けてからスーパーに行っても専業主婦に荒らされた後でヒネたものを高く買う羽目になった。しかしこの経験は為になった。冷蔵庫に残っているものと財布の中と献立を勘案しながらものを選んで買う、この行為は実に高度な頭脳作業である。さらに部屋に戻って料理をする時、何が大事かわかった、・・・イメージする力である。無論それを実現する技術も不可欠である。こうして私は単身赴任を通じて主婦業を再評価するようになりその延長線上で女性を見直すようになった。
 一方息子の方は元々料理に興味があったと見えて多分今では魚をさばくのは私より上手だろう。しかし興味が嵩じると怪しいものを作るようになり困ることもあった。
 材料選択眼と調理技術、は普通の主婦でもあるだろう。(聞けばそれもない女性が最近いるらしい)しかし構想力と言うものはこれはもう生まれ育ちに由来する。そして、そして・・・これだけでは足りない、海原雄山氏言う『美味いものを食わせてやろう』と言う一部愛情一部自己主張一部・・・、実はこの要素が料理を『食事』にするか『えさ』にするかの分かれ目である。 多くの主婦業の方にこの、”食事とえさの区別”の概念がない方がいらっしゃる。
 ところで男は母の味で育つ。これが結婚を期に妻の味になる。ものすごいカルチャー・ショックなのだ。妻の味が母の味より上等だったらもうそれだけで男は他の全てを辛抱しなければならない。その反対だったらこれほど惨めな人生もない。男子諸君、これはと思う女性が居たらそこの家に上がりこんで母親の手料理を食べてみたまえ。これが合格なら君はハッピーな人生を送る。

逝きし世の面影

2012年05月30日 08時57分08秒 | 日記
 渡辺京二氏著、平凡社出版の文庫本サイズの書籍である。これを読んで驚愕する。そこには勝手に思い描いていた”理想的な、凛とした、知的な、まあ、ありとあらゆる立派さを体現した日本人”は居ない。むしろ”ガッカリさせられる”日本人の姿がある。
 ところが幕末から明治にかけてやってきた外国人はそのような日本、日本人を奇異なものを見る目と同時に自分たちが失ったものへの愛惜の情を以って描き出している。
 そしてこの本の終章に到って、”それは失われる運命にあった”ように言及されている、と私は感じた。明治の開化期を経て日本人もまた”個”の確立を余儀なくされた、或いはそれこそが進歩、開化であるとの刷り込みを受けた。これに対してそれまでの日本人は”個”の意識が希薄であった、と本書は言う。当時の人々にあっては”独立した私が居る”のではない、”世界があってその中の風景の一部として自分が溶け込んでいる”のだ。随ってネコも犬も狐もタヌキもサルもカラスもフクロウも魑魅魍魎の類もごった混ぜに同じ地上屋敷に暮らしている仲間であった。
 侍の暮らしも今日テレビで見る長谷川平蔵の屋敷のような立派で清潔なものではなく貧乏でタタミは破れ、タヌキなどが人間様をからかいに出てくる類のものであった様子が窺われる。
 心を掻き毟られる思いがする。『個の確立』がそんなに立派なことであるのか?現代の文明はそれが当然の条件のように言う。しかしそれはもしかしたら西欧でのあの”宗教改革”、”清教徒革命”の悪しき遺産ではないないのか?ピューリタンの神経症強迫観念が狂的に清潔と言う幻想を追い求める中で派生した個の確立と言う幻想乃至は方便で以ってありとあらゆる事物事象を眩しい理知と教養と開化の光のなかに曝して眩惑されて宇宙の全体像を洞察する力を失い、資本主義だの民主主義だのはては金融資本主義、”市場原理”などと言う実にクダラナイ妄想を産み、それに酔いしれているのが現代ではないのか?
 こうして人間の行為が本来あるべき位置・・・それは奉仕であったり愛であったりする無報酬の行為などであろうが・・・を失い全てを金銭に変換してありとあらゆることを”ジョブ”とする狡猾さに翻弄される。今日中東で起こっていることは、人々が多分アメリカを通してアメリカ文化の本質を、さらにその向うにピューリタンのいかがわしさを見ているからではないか。
 そして、聖書もまたその終章である黙示録で”個の確立”を金科玉条とする文明への敵意を明らかにする。”覚醒”追求もまた最終的には”個の全体性への埋没”に行き着く。

日本の若者は覇気がなくてつまらないだって?俺はそうは思わない、侮るなかれ!

2012年05月29日 16時22分30秒 | 日記
 先日息子がこんなことを言ってきた、曰く・・・
”逝きし世の面影という本の240ページに面白いことが書いてある。江戸時代に来た外国人が日本人の仕事の仕方を書いてあるんだが、イタリアか吉田戦車の漫画のようだ。日本人はまあそういった豊かな文化を持っていたと思うんだがね、仮に西洋を輸入しながらそういう文化が残っていれば、コンベア節を歌うのが一番うまいやつが工事長とかもっと楽しい文化になっていたんでなかろうか。今の日本はアメリカと北朝鮮を足して二で割ったような本来の日本でない文化になっている。”
 そこで問題の本を読んでみた。こりゃあおもしれぇ!!だ。カッテンディーケ言うには”日本人の悠長さと言ったら呆れるくらいだ”なんだそうだ。一方、海軍伝習生に言わせれば”なんでそんなことを急いでやる必要があるのか?”となるらしい。昔、筑豊の炭鉱の話を読んだことがあるが全員がシャカリキに働いていたわけでもない、中にはブラブラしてあちこちでおしゃべりをしている奴も居たらしい。それが結構面白くて誰も咎めない、結構”息抜き”に重宝がられたと言う。
 何を言わんとするか判りますか?いつの頃からか日本人は早朝から深夜まで間なしにアリの如くに働くことを以って美徳と勘違いするようになった。思うにそれは感違いではなく”刷り込まれた”のだ。この本を読んでいると今我々が思っている、確信している日本人とはずいぶん違った日本人が居る。明治維新によって坂の上の雲に注目して一心不乱に駆けた日本人は実は本当の日本人じゃなかった、ような気がしてくる。
 息子が”コンベヤ節”と言っているが、本来の日本人ならベルトコンベヤの前に並んで流れ作業をしながら、それこそ誰かが扇を持って音頭を取りながらコンベヤ節でも歌いながらやったのではないかと思う。
 スイスかどこかにカルヴィンとか言う肛門期固着型神経症の辛気臭い聖書坊主が居て”勤勉は美徳なり”とか”蓄財必ずしも不義ならず、それを資本に変換して云々”みたいなことを言ったらしいとか、で、後年産業革命とか言う事態に直面した中で目端の利いた欲張りがその教えを支えにカンパニーとか言うものを興し、言葉巧みに人類を奴隷化して蓄財に励んだ、世界はその宗教に罹患して今日の苦境があるとは思いませんか。
 ところがその患者様たちの殆どが自分が病気であることに気が着かず”本能的にこういう世界はおかしい”と感じて”凍り付いてしまった若者たち”を捉えて、やれ”覇気がない”だの”勤労意欲に欠ける”だの”働くもの食うべからず”だの”しようもないニート”だの”引きこもりもええ加減にせい”だの、まあ真っ黒に言いなさる、さても教養洞察のない!!
 まだ小学校に上がる前、台北から引き揚げて来た祖父母が当座の雨露しのぎに家を建てた。川内は大きな川があって洪水がある。そこで敷地に盛り土をしてかさ上げしたのだがその地ならしに木材でやぐらを組んでそこから滑車様のもので大きな丸太の錘をぶら下げそれを十人近い人々で引っ張って持ち上げてドスンと落とす、近所で手の開いた者や通りがかりの人などが面白がって加勢する、・・・アララン、コララン、ヤットコセェーーーー”と何のこっちゃか判らん掛け声を一人が音頭とって残りが合唱してのんびりとやっていた。一箇所終わるとまたやぐらを移動して・・・と、こんなことは今の日本でやっていたら皆怒り心頭、トサカに来るであろうけれどもそういうのが昔ながらの日本人だったのだ。
 今日、アメリカに留学する学生が少ない、だとか留学してもズンダレているだとか、要するに日本の若者はふがいないとの論調があるようだが私はふがいないのは狡賢い連中の資本主義経済とかの理論を刷り込まれて自ら食用人間に成り下がっていることに気が着いていない方の人々だと思う。こういう”現象”のみ見て日本人を日本の若者を侮るなかれ、そういう人はまたしても失礼だが教養がない、・・DNAが親から子に引き継がれることを知らない。
 元禄時代、”腰の刀が重くてたまらぬ”と嘯いた侍の子孫が幕末になって殺伐なチャンバラをやった、つい60年前まで戦争ばかりしていた。

日を着て月に乗る女

2012年05月28日 10時36分05秒 | 日記
 黙示録12章に ”日を着たる女ありてその足の下に月あり その頭に12の星の冠あり、かれはみごもりおりしが子を産まんとして産みの苦しみとなやみのために叫べり・・・”とある。
 3章9節には”見よ、我サタンの会、すなわち自らユダヤ人ととなへてユダヤ人にあらず ただ偽りを言うもののうちよりある者をして汝の足元に来たり拝せしめ・・・”なる記事についてここに言われているヒラデルヒヤにある教会とは日本のことであるとの記事をネット上で見た。
 日ユ同祖論と言うのがあるが私はエホバの証人の頃からものみの塔で説明される神殿と神社が奇妙に似ていることに気がついていた。
 そこで大胆な仮説を立てて論証してみようとの野望を持った。
 ”日を着る”は旗を思い出せばすぐ判る。世界のどの国、民族も日章旗ほど強烈な”日”の印象を与える旗、或いはその類を持っていない。頭に12の星の冠も、日本人がダビデ王の下にあった民族の子孫であるとすれば了解可能である。ただ一つ説明し難いのが”月に乗る”であるが偶々息子が占星術に詳しいので”日本と月の関係”が何かないかを聞いてみた。すると”マンデン占星術で観る日本という国”と言うサイトがあることを教えてくれた。
 そこの説明を少し引用させてもらう。曰く、
”現在の日本は、日本国憲法、通称平和憲法が公布された1946年11月3日で観ます。
特徴は国民を表す1室に月があり、非常に受動的で、国民が女性的な考え方、感情的で受身であるという事。国民の代表者としても女性の声が幅を利かせ、消費動向にしても女性がカギを握っています。
また甘えの構造が社会の基本部分にあって、感情の絆を大切にする日本人は、ビジネスの面でも一緒に飲み交わし絆を作ってから契約をする等、接待の習慣にもそれが表れていると思います。・・・”さらに日本列島は三日月の形をしている。
 これで合点が行った、”日を着て月に乗り頭に12の星の冠”の女は日本である。その女は男の子を生んだ、これは鉄の杖で諸国民を治める・・・と書いてある。”杖ユダを離れず法を立つる者その足の間をはなるることなくしてシロの来るときにまでおよばん、彼にもろもろの民従うべし”と出エジプト記49章にある。その子はサタンに食われないように天に上げられた、つまり神以外には認識できない何かだろう。サタンは怒って女の後ろに水を吐き出して・・・はオウムによる液体であるサリン流出による日本転覆陰謀(それは潰えた)、朝鮮人による日本実効支配の目論見(まだやっている)等であろう。
 後に残っている事象は何か?”龍、サタンは女のすえの残れるもの、即ち神の戒めを守りイエスの証を持てるものに戦いを挑まんとて出で行き、海辺の砂の上に立てり”・・・。オウムの事件から20年ばかり経っている。随って女の末の者たちがサタンに戦いを挑まれる時代は始まって進行中であるかそろそろ終了でありそうだ。
 日本と言う国が極めて危ない状況を細々とかいくぐっているここ20年あまりの姿が重なる。

 

オウム真理教

2012年05月28日 09時52分24秒 | 日記
 先日NHKでオウム真理教の記録を見た。最終的に最も印象に残ったのは”何故???””どうして???”と言うことのようだ。”あのように優秀な人々がどうしてあんなものに引っかかったのか??”、”教祖は一体どんな動機で・・・??”と言うもののようだ。
 これを見ていて”さてもものを知らない人々よ・・・何十年も生きて、人間をやっていて何も勉強してないじゃないか”と僭越傲慢ながら思った。
 聖書創世記の6章に”神の子たちが人間の女の美しいのを見て・・・”と言う文言がある。これは、この我々が住む世界に我々の五感に感知されない別の存在が居て、且つそれがそちら側から人間にアクセスできることを暗示している。そのことを神道系のある宗教は”魂を飛ばした状態に居ると自分自身の操縦席を悪霊、低級霊の類に乗っ取られる”と言っている。この様子は福音書にも記載がある。
 ここに洞察・邪推の手を伸ばさなければならない。司直の目に見える、耳で聞くことの出来る、表現では説明不可能な動機があってあのようなことになった。多分それはあの教祖の激しい思い込みか何かに付け入った我々には感知できない何モノかが彼を自らの意図に沿って操縦し始め、おそらく同様のものが多数そこに集合して一つの”雰囲気”を醸成したのだろう。”不可解”な犯罪等については、いや全ての事柄について司直はここを洞察しなければならない。
 さて、地下鉄サリン事件は国家転覆陰謀の一環であったのだろうとあの報道から薄々感じる。サリンも日本人全部を損なうことが可能な量あったらしい。戦前も戦後も世界の何処でもこのような一国そのものを転覆するような陰謀があったことは知らない、せいぜいクーデターである。仮にそれが成功しても国民全部を損なうわけではない。
 何モノがあの組織に憑依してこれを成さしめたのか?と考えを巡らすうちにまたしても黙示録の12章15節が頭に浮かんだ。”ヘビはその口より水を川のごとく、女の後ろに吐きて之を流さんとしたれど、地は女を助け、その口を開きて龍の口より吐きたる川を呑みつくせり”
 聞けば教祖は自前で排泄も出来なくなっているらしい。そこいらの低級霊ならやることも暴走や刃物を振り回す等の”個人的な”事に終始してやがて正気に返る、返って”何故あんなことをしてしまったのか”と悔恨に打ちのめされることもあろうがどうやら教祖に憑依したのはとんでもない大物であったのではあるまいか?