うえぽんの「たぬき鍋」

日々のつれづれ、野球ネタ、バカ話など、何でもありの闇鍋的世界?

謹んでお悔やみ申し上げます。

2009-11-10 21:46:29 | 雑記
小・中学校時代の同級生・あさちょんのお父様のお通夜に行ってきた。

訃報はこの前の日曜日に知ったのだが、今朝、通勤途中にあさちょん本人にばったり出くわしたので話を聞いたら、以前から心臓を悪くして闘病中だったらしい。69歳はちと早いが、同級生の親が亡くなったという知らせを受けることが近年増え始めた。親が亡くなってもおかしくないような世代に突入したのかと思うとなんとも切ない。

その訃報を知った日曜日は、昨年の11月9日に亡くなった伯母の一周忌法要があり、そこで菩提寺の住職が詠む「白骨の章」なるものを聞いたのだ。「白骨の章」とは、浄土真宗の蓮如上人が書いた文章である。その一部にはこんな内容があった。

…朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわち二つの眼、たちまちに閉じ、一つの息、ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬるときは、六親眷属集まりて、なげき悲しめども、さらにその甲斐、あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて、夜半の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ、残れり。あわれというも中々、おろかなり。…

訳=私たちは朝の紅顔の生き生きとした姿であっても、夕方には命おえて、白骨となってしまう身であります。もともと、人の命は無情の風が吹いて死がおとずれると、たちまち二つの眼は閉じ、一つの息も絶えてしまうものです。だから紅顔の生き生きした姿が変じて、桃やスモモの花のごとき容色すぐれた装いを失ったときは、父母兄弟妻子ら肉親が集まって嘆き悲しんでも、所詮、甲斐無きことでありましょう。そうかといって、そのままにもしておけませんので、野辺に送って火葬し、夜半の煙となってしまえば、ただの白骨のみが残るだけです。悲しいといっても、まだまだ言いようがなく、それどころではありません。

白骨の章
http://www.sougi.com/funeral/mean/jodo_hongan/wb.html

これを聞いた直後、家に帰る途中に隣町の町内会の看板で訃報を知った時の驚きと、脳裏を吹き抜けた無常感といったら!大昔にこんな文章つくった蓮如上人というのは、スゴい人なんだなぁ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする