JR予讃線(瀬戸大橋線)「高松(たかまつ)」駅。
初めてこの駅に降り立ったのは、1996(平成8)9月15日。開局前のコミュニティFMラジオ局が全国公募した、パーソナリティのオーディション会場へ向かった際。その時が、初めて香川県を訪れた機会でもあった。
その後9月中には、オーディション合格の連絡が入り、10月半ばには高松市内のワンルームマンションに移り住む。
12月に病気で入院して、新年を病院のベッドで迎え、1月5日退院。
そして1月の25日に放送開始。
毎朝まだ暗い6時には出勤し、7時から2時間の生放送。休憩と次の準備の時間を挟んで、11時半から今度は2時間半の生放送。
その他にも、他番組の構成演出やらCM制作やら若いスタッフの指導やら……、とにかく忙しい毎日を過ごしていた。
メシはと言うと、毎日のように讃岐うどんを食い、たまには川沿いに何軒かあった鰻屋で、滋養を確保した。
3月、自らクビとなって4月初めに帰阪するまで、およそ半年間という短い期間であったが、恐らくこれまでで一番忙しく、一番充実した毎日を過ごしていたであろう、そんな私の思い出がいっぱいに詰まった、高松である。
初めてこの駅に降り立ったのは、1996(平成8)9月15日。開局前のコミュニティFMラジオ局が全国公募した、パーソナリティのオーディション会場へ向かった際。その時が、初めて香川県を訪れた機会でもあった。
その後9月中には、オーディション合格の連絡が入り、10月半ばには高松市内のワンルームマンションに移り住む。
12月に病気で入院して、新年を病院のベッドで迎え、1月5日退院。
そして1月の25日に放送開始。
毎朝まだ暗い6時には出勤し、7時から2時間の生放送。休憩と次の準備の時間を挟んで、11時半から今度は2時間半の生放送。
その他にも、他番組の構成演出やらCM制作やら若いスタッフの指導やら……、とにかく忙しい毎日を過ごしていた。
メシはと言うと、毎日のように讃岐うどんを食い、たまには川沿いに何軒かあった鰻屋で、滋養を確保した。
3月、自らクビとなって4月初めに帰阪するまで、およそ半年間という短い期間であったが、恐らくこれまでで一番忙しく、一番充実した毎日を過ごしていたであろう、そんな私の思い出がいっぱいに詰まった、高松である。