光格天皇
伝皇女欣子内親王 御掻取
紅綸子地柴垣松桜菊総繍肩裾御所解文様 江戸時代後期
現皇室の祖である光格天皇が即位したのは1780年譲位1817年。
フランス革命の緒となったパリ・バスティーユ牢獄の襲撃1789年。ヨーロッパ王室は大騒ぎとなるが日本では幕府はまだまだ安定。皇室と公家は幕府の支配下でそれなりの権威を保って、それなりに安定した日々。
そんな皇室に一大事出来。天皇が一人娘を残して遷化。
次代天皇の座を巡って色めき立つ人々。それなりの権威でも権威には諸々の実益が伴う。
安永8年10月29日(1779年12月6日)、後桃園天皇が崩御したときに皇女しかおらず、皇子がいなかったため、世襲親王家である閑院宮から新帝を迎えることになった。
後継候補者として
伏見宮邦頼親王の第一王子・嘉禰宮(5歳、のちの伏見宮貞敬親王)、
閑院宮典仁親王の第一王子・美仁親王(23歳、のち閑院宮当主)、第六王子・祐宮(9歳、光格天皇)
の3人があげられた。
先帝の唯一の遺児女一宮(欣子内親王、1歳)を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、残り2人のうち近衛内前と後桜町上皇は嘉禰宮を、九条尚実は祐宮を推薦した。会議の結果、嘉禰宮が門跡の附弟になっておらず、年下で女一宮とも年が近いものの、世襲親王家の中で創設が最近で、後桃園天皇の再従叔父にあたる祐宮が選ばれ、急遽養子として迎え入れられた。 (wiki)
推しとメンバーを眺めただけで権力闘争があったのだろうな。幕府と皇室メンバー関係者が右往左往したのだろうな、ということは誰でも分る。伏見宮家5歳の嘉禰宮 、閑院宮家9歳の祐宮。それぞれ一長一短ありで互角の勝負。祐宮に決定するまでには人間くさい話がいろいろとあったことでしょう。
以上を念頭に「サンデー毎日」の記事を読んで見ましょう。
江戸後期の女性皇族の地位 皇統に重要なのは男系か? 社会学的皇室ウォッチング!/38=成城大教授・森暢平〈サンデー毎日〉
<全文>
江戸後期の女性皇族の地位 皇統に重要なのは
男系か? 社会学的皇室ウォッチング!/38=成城大教授・森暢平〈サンデー毎日〉 | 週刊エコノミスト Online
今回は、江戸時代後期の女性皇族の地位を、光格天皇の中宮(皇后にあたる)、欣子(よしこ)内親王(1779~1846年)から考えていきたい。当時の皇位継承を子細に...
週刊エコノミスト Online
<抜粋>
今回は、江戸時代後期の女性皇族の地位を、光格天皇の中宮(皇后にあたる)、欣子(よしこ)内親王(1779~1846年)から考えていきたい。
当時の皇位継承を子細に検討してみると、決して男系による継承だけが重視されていなかったことが分かる。
これが森氏が今回言いたかったことのようだが…。
タイトルとは指し示すものが微妙に違うようにも見える。欣子内親王を例にして森氏は何を語りたいのか。詳しく読んでみよう。
*1816(文化13)年2月25日、20歳で出産した男子を2ヶ月で亡くして以来出産が無かった中宮欣子(36歳、満年齢に換算)は高貴宮(あてのみや)(悦仁(としひと)親王)を産む。
*その時、既に側室(典侍(てんじ))勧修寺婧子(かじゅうじただこ)に皇子(寛宮(ゆたのみや)、恵仁(あやひと)親王)15歳がいた。
寛宮恵仁親王は9歳のときに立太子の儀式を経て皇嗣(次の天皇)の地位にあった。(原文のママ)
↑
森暢平、イヤラシイ書き方しますね。立太子した皇嗣なら、素直に皇太子と書けば良いところを皇嗣(次の天皇)と書くのは秋篠宮殿下の立場を当てこすっているのでしょう。
何故なら森氏は寛宮恵仁親王は即位するものの、傍系の「中継ぎ天皇」と見做されていたと後述している。
ところが<傍系の中継ぎ天皇>のはずがいろいろあって現皇室の先祖となって、その子孫を取り巻く人々が皇統は直系だ、長子だ、傍系に皇統が移るのはケシカランと大騒ぎ。
御先祖さまを見ろ!傍系の中継ぎ天皇の子孫なのに直系だ傍系だとオカシイでしょう。大笑。
光格天皇は、閑院宮家出身である。曽祖父は東山天皇にあたるが、皇位継承が想定された人物ではなかった。町医者の娘であった女性(のちに大江磐代(いわしろ)と呼ばれる)を母に持ち、その大江の母は、鳥取・倉吉で「餅屋のおりん」と呼ばれ出自も身分もはっきりしない人物である。
光格天皇の母の出自が卑しい。と言っていますね。だから何なの?
男系男子継承では母の出自は二儀的なものです。重要なのは畑ではなく「胤」ですから。
1817年、光格は譲位し上皇となり、寛宮が仁孝天皇となった。
1820(文政3)年夏の状況を考えてみる。光格上皇48歳。皇太后となった欣子41歳、高貴宮4歳。一方、仁孝天皇は20歳で、この年、初めての子鍠宮(おさのみや)(安仁(しづひと)親王)が誕生した。
*1820年夏、人々。
光格上皇(48歳)皇太后欣子(41歳)高貴宮(4歳)
仁孝天皇(20歳)鍠宮(0歳)
光格天皇はまだ若い。譲位したのは皇太子寛宮を天皇にして、すぐに退位させ、欣子の子高貴宮を天皇にする筋書きだったのでしょう。
つまり、天皇本家の流れを汲(く)む女性皇族の欣子の実子高貴宮と、現職の天皇である仁孝を父に持つ鍠宮を比較したとき、高貴宮のほうが貴種性が高いと考えられていたのだ。それを担保したのが本家の娘、皇太后欣子である。
中宮欣子に子が無く致し方なく側妃の子を皇太子としたら中宮に子が出来た。
中宮派としては、側妃の子を皇太子にしたのは早まった!と悔やんだことでしょうね。では中宮の子高貴宮が天皇になる目は無いのか。中宮欣子派は知恵を絞ったことでしょう。
欣子派が策を練っているうちに思いがけないことが起きる。
1821年、仁孝天皇が即位して4年。高貴宮(5歳)死亡。鍠宮(1歳)死亡。
1823年、仁孝天皇の正妻(女御)鍠宮の生母鷹司繋子(つなこ)(25歳)死亡。
光格上皇(55歳)皇太后欣子(48歳)仁孝天皇(23歳)が残される。
😐 森氏は仁孝天皇を欣子の義理の息子と言い、欣子に子が年齢的に望めないことをもって1820年代の皇統の危機というが、どこが皇統の危機なのか理解に苦しむ。欣子には義理の息子でも光格天皇には実子の男皇子である。
天皇の実子である男皇子がいるのなら皇統の危機ではない。仁孝天皇は23歳。常識的に考えて子を何人か儲けることは可能でしょう。
実際、仁孝天皇には側室との間に何人か男子が生まれている。
またもし、仁孝天皇が男皇子が得られなくても世襲親王家のどなたかが天皇になられたでしょうから、皇統に危機などあり得なかったはずです。
そのようなこと森氏は当然充分に知っているだろう。それなのに、内親王欣子に子供が望めなくなったことをもって皇統の危機という。
此処まで読んでおおよそ結論は予測できるが先を見てみよう。
、、、
そのうちの一人、煕宮(ひろのみや)(統仁(おさひと)親王、1831〈天保2〉年生まれ)が、のちに孝明天皇として即位し(1846〈弘化3〉年)、皇統は保たれた。
ハイ!おっしゃるとおり光格天皇、仁孝天皇、孝明天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇、平成の天皇、令和の天皇。。秋篠宮文仁親王。。悠仁親王と 皇統は保たれて行くでしょう。
維新のあとの1870(明治3)年、彼女の陵墓石塔が、前例を覆すような七重塔の形式で作られた。天皇本家の最後の女性、欣子の存在感は、それほどまでに大きかったのである。
孝明天皇即位の年まで生きたという欣子さま。一応形の上では仁孝天皇の母である。明治天皇から見れば曾祖母、三代前の天皇の皇后。盛大な陵墓石塔も明治の天皇の先祖への孝心と威信を示すためでもあったでしょうね。
愛子さまの正統性
😇 ほら来た!やっぱりね。
現在の皇統も19世紀前半と同様に綱渡りの状態にある。天皇の一人娘である愛子さまと、血筋から言えば傍系である秋篠宮家の悠仁さまとで、どちらが次の天皇になるべきかの具体的な議論が起こっている。
起こってません。女系天皇派、愛子天皇派が女系天皇、愛子天皇の実現を叫んでいるだけです。
また、始めに書いたように現皇室の祖である光格天皇がそもそも世襲親王家出身なのですから、愛子さまは直系、悠仁殿下は傍系と言い立てるのはナンセンスです。
では119代後桃園天皇の一人娘欣子さまはどうかと言えば、
上記の系図113代東山天皇の父112代霊元天皇は110代、111代天皇の兄弟。
107代後陽成天皇のそのうえは、
南北朝でぐっちゃぐちゃ。
↑こんな図だけ眺めて、森氏の言うことを聞いていると男系男子継承の本質が理解できなくなりますよー。
1何が何でも男系男子と考えれば、悠仁さまが継承ということになるが、これは近代の理論である。2江戸時代的な継承規則に則(のっと)れば、愛子さまのほうが正統性は高いと考えることもできる。愛子さまが、天皇家と遠くでつながる男性と結婚することはないであろうが、仮にそんなことがあれば、3愛子さまの継承には正統性が増す。
今回、強調したいことは、4皇統に重要であるのは男系継承だけでなかったことである。前近代においても、女性皇族の地位が低かったわけではない。
😇 間違っているところに線を引いてみました。
1「何が何でも皇位継承は男系男子」という考えは近代の理論ではありません。
2 江戸時代の継承規則とやらに則しても愛子さまのほうが正統性が高いということはありません。天皇の娘のほうが世襲親王家の息子祐宮より正統性が高ければ欣子さまが即位していたはずです。
3愛子さまが男系男子と結婚しても愛子さまの正統性が増すということはありません。愛子さまには皇位継承の資格が無いからです。
光格天皇が欣子さまを皇后にしたのは、欣子さまを皇后にすることが天皇になる条件だったからです。
親が居ない幼い内親王が生きて行くには有力な後ろだてを得て有力な者と結婚するしかない。どんな有力者と結婚しても皇后以上の地位が与えられることはないでしょうしね。
コロナ禍が落ち着いた様相を見せるここ1カ月、女性皇族の活躍が目立つ。江戸時代よりも、男女の関係が近代化している21世紀。男女共同参画社会のなかで、女性皇族の地位がより高まっていくことを期待したい。
男女共同参画と宗教的背景を持つ皇位継承は別枠で考えるべきでしょうね。
それでも愛子さまをダシにして男女共同参画を語るのなら、せめて正確に事実を語っていただけませんでしょうか。
私の結論:
欣子さまが皇室内で力をもっていたのは、天皇の娘であり皇后後に皇太后であるという社会的に高い立場を得ていたからです。
愛子さまもまた同様に天皇の娘という社会的立場にによって手厚い待遇を受けている。
即ち欣子さまにも愛子さまにも皇位継承に関わる正統性は無いが、社会的立場は高い。