憂国の花束

右でも左でも無く、上でも下でも無く。

祖国日本よ! 誇り高くあれ。

台湾から靖国へ・・昭和天皇ゆかりの桜

2022-03-22 14:36:20 | 昭和天皇
😊 久々に昭和天皇の御名がニュースに出た。
昭和天皇を敬愛する私としては、美談として心から万歳を唱えたいのですが、無心になれない事情も見え隠れ?




😐 ささやかな碑が好ましい。世が世ならば、と言う気がしないでもないが。
桜の苗は未だ弱々しく碑はささやか。場所は靖国神社。どうか変な思想のかたにイタズラされませんように。

昭和天皇ゆかりの桜、台湾から「里帰り」 靖国神社に植樹
2022/3/17 20:26 産経新聞
昭和天皇が皇太子時代に行った台湾行啓(ぎょうけい)の際に植えられた桜の苗木が17日、東京都千代田区の靖国神社に植樹され、記念の石碑が建立された。 

「桜里帰りの会」の日本側会長で外交評論家の加瀬英明氏は「先の大戦で3万人の台湾の方々が戦死され、靖国神社に祀(まつ)られている。(桜が)日本と台湾の友好の絆を高め、日本とアジアの平和と繁栄を見守ることを願う」とあいさつ。 

台湾側理事の許世楷・元台北駐日経済文化代表処代表(駐日大使に相当)は「ロシアが無謀にウクライナに行ったような中国による台湾への侵攻を防ぐため、桜を通じて日本と台湾の親密な交流がさらに発展することを祈念します」と応じた。 

桜の苗木は、靖国神社大鳥居の手前にある、ひな壇緑地に植樹された。里帰りした桜は1923(大正12)年4月、当時の皇太子裕仁親王が台湾を訪問したのにちなみ、台湾民衆が宿泊先の近くに植えた。

😇  嫋々たる桜の若木が靖国神社まで来た道のりを報道で辿ると・・。

台湾から日本に桜「里帰り」へ 昭和天皇ゆかりの苗木を披露
毎日新聞 2020/2/11 21:40

 
台湾から昭和天皇ゆかりの桜の苗木を日本に贈る計画をしている「桜里帰りの会」が11日、台北市で記者会見し、苗木を披露した。日台の絆の象徴としたい考え。台湾側会長で元行政院(内閣)政務委員の黄石城氏は「皇室にゆかりの深い地に植えていただきたい」と話した。
 昭和天皇は皇太子時代の1923年4月に台湾を訪…(以下有料記事のため読めない)


昭和天皇ゆかりの桜、台湾から「里帰り」 即位礼を祝福
朝日新聞201910月21日 16時30分


陽明山の昭和天皇ゆかりの桜

昭和天皇お手植えの台南のガジュマル


昭和天皇お手植えの竹

天皇陛下が即位を宣言する22日の「即位礼正殿の儀」を祝おうと、大正時代に昭和天皇が台湾を訪れた際に現地の住民が植えた桜などが日本に「里帰り」する。台湾の政財界有志が寄贈を計画。19日には、日本側の賛同者への苗木の目録贈呈式が東京都内であり、日台の関係者ら約50人が出席した。

 昭和天皇は皇太子だった1923年、日本統治下の台湾を訪問した。寄贈を企画した「桜里帰りの会」によると、その当時、住民が歓迎のために道路沿いに桜を植え、昭和天皇は竹とガジュマルを植樹した。これらの木が今も大きく育っており、その苗木を検疫手続きを経て日本国内に植える計画だ。 

贈呈式では、同会会長で台湾行政院の元政務委員、黄石城さん(84)が「台湾の人が大事に育てた木々を里帰りさせ、台湾と日本の友情をますます深めたい」とあいさつした。

 黄さんから目録を受け取った、同会の名誉会長で安倍晋三首相の母、洋子さんは「桜が見事成長し、友好が深まるよう願っている」と述べた。

😊 1923年・・100年前に昭和天皇を歓迎した桜、昭和天皇がお手植えされたガジュマルと竹がそのまま残されて大切にされて元気で居る。台湾の方々の心づかいが嬉しい。

陽明山をはじめとして台湾には桜の名所が数多くあるようです。

桜の種類も多く、日本では馴染みの無い桜もあるという。
陽明山に植えられて皇太子裕仁親王を出迎えた桜はどんな花を咲かせていたのでしょう。

😐 統治国の皇太子裕仁親王を歓迎するために植えられた桜、お手植えした木々を戦後も大切に育ててくれた台湾の人々に感謝したい。

こちらでは己の政治力を誇示するために昭和天皇が植えた記念樹をアッサリと切る人々がいる。



全国植樹祭で天皇陛下が御収穫 クロマツの柱お披露目(島根・大田市)
3/19(土) 18:14 さんいん中央テレビ
去年大田市で開催された全国植樹祭で、天皇陛下が収穫されたクロマツを利用した柱の除幕式がきょう大田市の三瓶自然館サヒメルでありました。

 柱の除幕式には島根県の丸山知事や大田市の楫野市長など関係者約20人が参加しました。柱に利用されたクロマツは50年前の昭和46年、大田市で開催された第22回全国植樹祭で昭和天皇が植えられました。その後、平成3年の全国育樹祭で天皇陛下が皇太子時代に手入れをされ、去年5月大田市の三瓶山と東京の赤坂御用地をオンラインで結び開催された第71回全国植樹祭で天皇陛下が収穫されました。

 クロマツは大田市の製材工場で幅6センチ厚さ18ミリの板材に加工。植樹祭を後世に伝えるため、三瓶自然館サヒメルのビジターセンター内に幅約50センチ、高さ4メートルの柱を作りました。また、大田市に寄贈されたクロマツの円盤は植樹祭のシンボルとして大田市役所に展示されるということです。


昭和天皇の言葉抜き書き・・『昭和天皇拝謁記』メモ

2022-03-22 11:17:01 | 昭和天皇

😐 『入江相政日記』を大昔読んだことがある。
TVで昭和天皇について語る入江相政氏は(私が子供だったからでもあろうが)昭和天皇にひたすらの敬愛をもって仕えているひとのように見えていた。
なので入江相政日記を読んだとき、氏が意外に昭和天皇を冷めた目で見ていることに驚いた。氏が見る昭和天皇は優柔不断でなかなか決断できないかたで、氏はその優柔不断ぶりにイライラし、行間から氏の「ちっ!」という舌打ちが聞こえてくるような部分もある。
(優柔不断・・秋篠宮殿下も優柔不断😊

昭和天皇の祖母柳原愛子は入江氏の祖父柳原前光の妹である。昭和天皇と入江氏はまたいとこ。姪が三笠宮妃百合子なので、昭和天皇の義理の叔父でもある。入江氏は昭和天皇を含む割と近しい親戚グループの一員なので昭和天皇を敬しつつも、どこかで馬鹿にしているようなところがあるのも当然、か。

😊 『昭和天皇拝謁記』の田島道治 は初代宮内庁長官として入江侍従長と同時期に昭和天皇に接したかただが、入江侍従長と違って皇室との縁戚関係がない国民である。つまり昭和天皇を見る目線は昭和天皇を敬愛する私に近い。

コラムニスト矢部万紀子が『昭和天皇拝謁記』を引用して、戦後の昭和天皇の時代と令和の時代の天皇と国民の関係を論じている。
曰く、昭和天皇は国民に不満がないように配慮したが、平成から次第に皇室は国民の不満に配慮しないようになった。その背景には格差社会の広がりと国民の変化がある。と。
・・・背景はともかく、皇室が国民の不満に配慮しなくなったことだけは事実でしょう。
矢部万紀子の分析はツマラナイので、敬愛する昭和天皇と田島氏の言葉だけをメモする。

「国民から批難される行動はしない」そんな昭和天皇が皇太子さまの進路として望まれていた大学名昭和天皇の肉声から読み解く"皇室の学歴観"
2022/03/21 12:00  PRESIDENT Online 
1950(昭和25)年9月1日
<東宮ちやんは留学は兎に角、私は洋行は必要だと思ふ。私もいつて見聞を広め有益だつたと思ふ故、あゝいふ風に米英等にゆくといふことでいゝと思ふ。大学は南原総長の間は東大はいやだから、学習院の方がよいと思ふ。南原がやめた後なら東大でもよいが……云々仰せあり>
*注 南原総長 貴族院議員 戦後「天皇退位論」を説く。

同日
<東宮様御成年後は御洋行と大体決めて、御教育のことを進め来りましたが、MCの意見がViningに申した通りとしますれば、東大とか学習院大学とか或は御学問所とは申しませぬが、何かそのいふことが、大に今日より調査研究すべきかと存じます>
*注 MC=マッカーサー Vining=バイニング夫人

 6月26日
<Viningが過日MC訪問の節、一寸東宮様go abroadの事を申せし処、非常に反対のやうにきいて居ります> 

皇太子たるにふさわしい学校に行く。第一候補は日本の最高学府の中でも東大。この考えが皇室全体のものだったことは田島氏と秩父宮さま(昭和天皇の一つ下の弟)とのやりとりの記述(同年1月5日)からもわかる。
田島氏は秩父宮さまに、皇太子さまの外遊方針を説明した。「日本の大学入学前に3カ月くらい渡米」と話したところ、秩父宮さまがこう反応したという。(矢島)

<東大といふことになれば随分共産党員の学生なども居るしどうかと思ふと仰せにて、さもなければ学習院大学でございますがと申し>

1949年2月28日 
田島氏皇太子(明仁)に初めて面会
<日本の将来は、皇太子様の如何に御成人にかゝるかの重大事なること、田島職責中の最大の一たること(略)国民との接触上友人は最良の師にて、切磋琢磨御必要のこと等言上す>

(1950年7月5日)田島氏昭和天皇に
<東宮様は上、中、下とわけて上の部に御入りになり、馬、テニス何でもなさいます>
*注 1990年頃バイニング夫人がアメリカへ送った報告書が公表されたが、
「皇太子は中の中、弟宮については言わない方が良い」「皇太子が中の中であることは幸いである。」と書かれていた。中の中だったか、中の上だったか、中の下だったか、記憶が曖昧だが、いずれにしても上の部ではないだろう。

1951年10月22日
<実は東宮様高等科来年御卒業に付、其後参与等と相談の結果、学習院大学部へ御進学願ふ事に決定、御許しを願ふ為、小泉及野村大夫奏上の筈でありまする>

1949年12月9日、内親王の結婚相手に関連して
<大学を出てもいゝといへぬ人物もあるし大学を出ぬもいゝ人物もある。(略)名和昆虫所の名和も小学校だけかと思ふ。要は学校ではないとの仰せ故、陛下の御言葉は御尤も故、拝承す>

満足に食べられない国民がいた『拝謁記』の頃、第一に注意すべきは衣食住に関するものだという理解だったろう。だから昭和天皇は、自分自身の御用邸利用にもセンシティブだった。 
1950年7月27日
<葉山に居ればどうしても採集に出るがそれはどうだとの仰せ故、(略)安心感を国民にむしろ与へるので御よろしいと存じます、と申上ぐ>

1950年8月10日
<東宮ちやんの軽井沢、乗鞍等、宿屋など独占して皆が困るといふ事はないか。私の杞憂にすぎないならばよいが、若しそうでないならば、私は、教育上の見地からよろしい事でも、今のやうな点に批難の余地ある事は少し控へて貰いたいと思ふとの仰せ>

<今後は教育上の点より望ましき事も、それらの点で不満を世に与へる事は差控える事も考えますと申上ぐ>

1950年9月4日 
<東宮ちやんの軽井沢は矢張り余程気に入つたらしく、昨日も珍しい事だが軽井沢の話をあとからあとから話してた。義宮さんはそういふ事をするが、東宮ちやんとしては珍しい。馬とテニスと丈けなら那須でもと私がいつたが、どうも軽井沢の空気全体が余程気に入つたらしい> 


『昭和天皇拝謁記』に関する過去記事
51年9月3日
上皇さま17歳。軽井沢で2日、共に時間を過ごして感じたこととして、天皇にこう伝えたとある。<(皇太子は)御自分のきらいないやな事は少しもなさらない様に御見受け致しました> 

😇  昭和天皇は御自身の体験から洋行を帝王教育と考えられていたようです。
皇太子(明仁)は、1953年(昭和28年)3月30日から同年10月12日まで 初めての外遊。この外遊の結果単位が足りなくなり学習院大学を中退しているが、その後聴講生として学業を継続。