憂国の花束

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加冠の儀(4)天皇・皇族の「成年式」を考える際、気をつけたいこと

2024-07-26 00:16:24 | 加冠の儀

1909年明治42年2月11日に公布された皇室令第4号皇室成年式令は1947年昭和22年5月2日に廃されています。
これ以後に行われている「成年式」の様式は「皇室令第4号皇室成年式令」(以後皇室成年式令)のような法に根拠があるものではありません。
皇室成年式令を慣例として採用しているのですが、皇室成年式令と大きく変わっているところが2点あります。

・加冠の儀を賢所外陣ではなく皇居宮殿で行うようになった
・皇族女子にも成年式を行うようになった

「皇室成年式」が廃令になった後、新しい皇室成年式令が定められ無いままになっているので、アレンジは自由、かもしれませんね。
アレンジ自由な分、その時の関係者の思想が反映されているとも見ることができるのではないでしょうか。


徳仁親王
徳仁親王殿下は、昭和55年2月23日、成年に達せられたので、同日、皇居において成年式の儀式が行われました。
皇太子としての成年式ではないので、国事行為たる儀式とはされませんでした。)宮内庁HPより

文仁親王

😐 宮内庁が「皇太子としての成年式ではない」と但し書きしているのに、徳仁親王と文仁親王の纓の形が違うのは、アレンジでしょうか。
悠仁殿下の成年式に変なアレンジが加えられないと良いですね。


立太子礼をうけて皇太子として成年式を行ったのは、大正天皇の即位に伴い皇太子となった昭和天皇と平成の天皇ですが、平成の天皇の場合は立太子礼と成年式を同日に行うという離れ業…

昭和天皇
大正3年(1914年)11月3日 立太子礼
大正8年(1919年)4月29日満18歳 5月7日成年式
平成の天皇
昭和27年(1952年)11月10日 立太子礼と成年式が同日に行われた。


皇太子裕仁親王の成年式を祝う絵葉書

1918年1月に皇太子妃に内定した良子女王の写真が並べられている。


昭和天皇の「加冠の儀」の映像が無いのは、賢所外陣で行われたからでしょう。



1952年昭和27年11月10日 立太子の礼と成年式が同日に行われた。
「皇室祭祀令」も「皇室成年式令」も既に廃令となっている。


明仁親王成年式 燕尾纓 の冠

以下1952年 ”成年式”と題された写真、3枚







😯 浩宮の中途半端におっ立った纓は現行の天皇の立纓とは違うが、、






コトバンク等で、天皇の立纓と解説される”立纓”に近い。

昭和天皇の皇子として生まれた明仁親王でも成年式に立纓の冠は用いていない。
当時皇太子の子であった徳仁親王に天皇の立纓のようなもの用いることにしたのは、誰の発案だったのでしょう?

つづく

加冠の儀(3) 天皇・皇族の成年式

2024-07-23 23:06:10 | 加冠の儀

1915年大正3年 14歳の昭和天皇 
立太子礼を受けた未成年皇太子の正装
昭和天皇の成年式は1919年大正8年に行われている。 

1909年明治42年2月11日に公布された皇室令第4号皇室成年式令以前には天皇・皇族の成年式に関する確たる規定は無い。

皇室令第4号 皇室成年式令


第1章 天皇の成年式
一条 天皇が成年に達した当日に成年式を行う。但し日延べ可。
二条 天皇成年式を行う期日は宮内大臣が公告する。
三条 天皇成年式の当日には、賢所・皇霊殿・神殿に成年式を行う旨を奉告し、神宮・神武天皇山稜・先帝先后の山稜に勅使を送って奉幣する。
四条 天皇成年式は附式に定めるところに従い賢所大前にて行う。
五条 天皇成年式を終えたら皇霊殿・神殿に謁する
六条 天皇成年式を終えたら太皇太后・皇太后に謁する
七条 天皇成年式を終えたら正殿にて朝賀(皇太子以下の祝賀)をうける。
八条 天皇成年式を終えたら天皇主催の宮中饗宴を開く。

第2章 皇族の成年式 (皇太子・皇太孫・親王・王)
九条 皇太子・皇太孫・親王・王が成年に達した当日に附式に定めるところに従って、賢所大前で成年式を行う。但し日延べ可。
十条 皇太子・皇太孫・親王・王の成年式を行う当日には、賢所・皇霊殿・神殿に成年式を行う旨を奉告する。
十一条 皇太子・皇太孫・親王・王が成年式を終えたら、天皇・皇后・太皇太后・皇太后に朝見する。
十二条 皇太子・皇太孫の成年式には第二、第五、第八条の規定を準用し、親王・王の成年式には第五条を準用する。
十三条 親王・王の成年式が終わったら、当日宮内大臣が成年式が終わったことを公告する。

😐 天皇・皇太子・皇太孫は成年式が始まる前に公告。親王・王は成年式が終わったら公告。
天皇・皇太子・皇太孫は宮中饗宴有り。親王・王は宮中饗宴無し。
成年式を行う旨を神宮・神武天皇山稜・先帝先后山稜に奉幣をもって報告するのは天皇だけ。

続いて附式。
とりあえず、全文。
皇太子と親王の加冠の儀の違いは、次回。

第一編 天皇成年式





第二編 皇太子成年式(皇太孫成年式、是に準ず)





第三編 親王成年式(王成年式之に準ず)




加冠の儀(2)・・立太子して皇太子となる

2024-07-22 02:15:34 | 加冠の儀
悠仁殿下が成年となられるお誕生日は9月6日ですが、成年式にあたる加冠の儀は来年3月高校ご卒業を待って行われます。
いよいよ悠仁殿下が成年皇族になられる日が足音を立てて近づいてきました。
加冠の儀をより弾む心で迎えられるよう、気の向くままに勉強して行こうかな、と思います。

皇室祭祀令には、天皇の成年式、皇太子の成年式、親王の成年式、王の成年式についての条項があります。
気になるのは、皇太子の長男親王として成年式が行われた今上と皇嗣殿下の長男親王として成年式が行われる悠仁殿下の加冠の儀に差があるかどうか、ですね。
皇太子(皇位継承第一位)と皇嗣(皇位継承第一位)のそれぞれの長男の加冠の儀に差があるのなら、それは、すなわち、皇嗣≠皇太子、というようなもの??さて、どうなるのでしょうね。


明治天皇 
嘉永5年9月22日(1852年11月3日) 御誕生
万延元年7月10日(1860年8月26日)勅命により儲君と定められる
万延元年9月28日(1860年11月10日)親王宣下の儀
孝明天皇の宸筆による「睦仁(むつひと)」の2字が示された
聖徳記念絵画館壁画『立親王宣下』
内大臣二条斉敬(左手前)が「睦仁」の御名を記した書を蔵人権右中弁清閑寺豊房に手渡す光景。奥には権大納言広橋忠礼(左奥)などが控えている。

明治元年9月8日(1868年10月23日)一世一元の詔
明治22年2月11日(1889年2月11日) 皇室典範
明治41年9月19日(1908年9月19日)皇室祭祀令
明治42年2月11日(1909年2月11日)皇室成年式令

大正天皇
明治12年(1879年)8月31日 御誕生
明治20年(1887年)8月31日 儲君 と定められる
明治22年(1889年)11月3日 立太子礼

※儲君
日本国語大辞典
皇太子にする予定の皇子に宣下された称号。のちに立太子の儀があって初めて皇太子となる。霊元天皇が朝仁親王(のちの東山天皇)に宣下したのが最初。
  1. [初出の実例]「況や太子なき時は国の根本かるい故に、儲君と云て格別に立て」(出典:雑話筆記(1719‐61)上)
東山天皇…霊元天皇の第4皇子。1682年(天和2)父天皇の強い希望により儲君(ちよくん)に治定,翌年皇太子となり,ついで87年(貞享4)践祚した。立太子の儀は300余年間の中絶を復活したものであり,儲君治定は立太子以前に皇嗣の身分を確定しておく必要から始められた新儀である。…
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」


😐 儲君=皇太子、という理解でも良いが、大正天皇の例をみても解るように、立太子の礼をもって正式な皇太子となります。
明治天皇は「近代の天皇のなかでただひとり皇太子にならずに天皇となった天皇」と解説されることもある。

明治天皇、大正天皇共に皇室成年式令制定以前に成年を迎えている。

昭和天皇
明治34年(1901年)4月29日 御誕生
明治45年(1912年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、旧皇室典範の規定により皇太子となる。
大正3年(1914年)11月3日 立太子礼
大正8年(1919年)4月29日満18歳 5月7日成年式

平成の天皇
昭和8年(1933年)12月23日 御誕生
昭和27年(1952年)11月10日 立太子礼と成年式が同日に行われた。

令和の天皇
昭和35年(1960年)2月23日 御誕生
昭和55年(1980年)2月23日成年式
昭和64年(1989年)1月7日 昭和天皇崩御、平成の天皇践祚、に伴い皇室典範の規定により皇太子(皇嗣たる天皇の皇子を皇太子とする)となる。
平成3年(1991年)2月23日 立太子礼
令和元年(2019年)5月1日 即位

秋篠宮皇嗣
昭和40年(1965年)11月30日 御誕生
昭和60年(1985年)11月30日 成年式
令和元年(2019年)5月1日 令和の天皇即位に伴い皇嗣(皇太子)となる。
令和2年(2020年)11月8日 立皇嗣礼


大丈夫かなぁ~
(イメージ画像)
😰 令和に入って、次々に破壊されていく宮中祭祀、宮中行事、皇室の伝統、、、2000年の歴史も一瞬で破壊される。
ゴジラがどなたをしめしているかは御想像におまかせします。


加冠の儀(1)

2023-09-03 00:49:54 | 加冠の儀




😊 悠仁殿下の加冠の儀は、ご日程の大凡が発表されて、いよいよカウントダウンに入ったと言ってもよいでしょう。
2024年春、待ち遠しいことです。その日まで約1年半ワクワク感を楽しめるのですから待つのも楽し、ですね。

加冠の儀について、少しづつ知見を整理してみます。私の思い違いや説明不足のご指摘ご教示、お待ちしています。




『皇室令』は1947年に廃令となりましたが、憲法に違憲しない条項はそのまま踏襲されています。
現行の『皇室典範』も旧皇室令を知らないと分かりにくい部分があります。

皇室親族令』第三章 親子

・皇室の子・・天皇の子=皇子
       皇太子・親王・王の子=皇族の子

😇 現在の皇室
  誕生時から皇子だったのは昭和天皇の子である上皇と常陸宮殿下だけです。

 今上と秋篠宮殿下は皇太子の子、として誕生=皇族の子
 
 愛子さまは皇太子の子、として誕生=皇族の子

 悠仁殿下と佳子さまは親王の子として誕生=皇族の子

・親が天皇に即位すれば、子は皇子になる。
 愛子さまは今上が即位して皇族の子から皇女子に格上げ。
 悠仁殿下も秋篠宮皇嗣殿下が天皇に即位した時点で皇子となる。

但し同じ皇族の子でも皇太子皇太孫の子と、親王・王の子では些かの待遇の違いがある。


皇室成年式令

 


・1章 天皇の成年式
 2章 皇族の成年式
  皇太子・皇太孫と親王・王の成年式には些かの違いがある。



😇 今上と秋篠宮は成年式当時、お二人とも皇太子の子=皇族の子でしたが、浩宮は将来の皇太子、ということで多少の差をつけたようですね。
『成年式令』附式には、
第一編天皇の成年式
第二編皇太子の成年式(皇太孫準ず)
第三編親王の成年式(王準ず)
と分けてあり、皇太子の成年式と親王の成年式の次第には違いがあります。


浩宮は成年式当時皇太子ではないので、親王の成年式次第を用いたはずですが、実際にはどうだったのか、、、。
調べる段階で出て来るかもしれませんが、今は不明です。






😁 とりあえず、冠の纓が違う。

悠仁親王殿下は皇嗣(皇太子)の子で、将来の天皇、即ち当時の浩宮徳仁親王と同じ立場ですから、浩宮徳仁親王と同様に親王以上皇太子未満の成年式になるはずですが…。
一人娘のティアラさえ、なんのかのと言って作らない今上ではねぇ~。


加冠の儀については、まだまだ語りたいことが沢山あります。
(つづく)