1月11日(土) とある駅前の、とある書店の入り口近く

・・・ぱっと目に付く佳子さま写真集
『麗しのプリンセス佳子さま 30年のご足跡』宝島社
『微笑みのプリンセス 佳子さま (別冊週刊女性)』主婦と生活社
・・・佳子さま写真集の向かって左
彬子さま著
『日本美のこころ』小学館文庫
『赤と青のガウン オックスフォード留学記』PHP文庫
『新装版 京都 ものがたりの道』毎日新聞出版社
・・・佳子さま写真集の向かって右の品ぞろえが香ばしい
徳仁親王著
『テムズとともに──英国の二年間』新装復刻版 紀伊国屋書店
小林よしのり
『ゴーマニズム宣言SPECIAL 愛子天皇論2』扶桑社
高森 明勅
『愛子さま 女性天皇への道』講談社
今上・小林よしのり・高森明勅の揃い踏み😅
ちなみに、この書店店内のどこにも、10日に出版された悠仁さまの写真集も、愛子さま、雅子さまの写真集も置かれていない。
店主のセンスが良いのか、大人の判断なのかは不明。

まさか、本気で愛子さまを孝謙天皇になさるつもりか?

😐 講書始の儀で行われた御進講の内容は、これまでの例によれば来週にでも宮内庁HPに掲載されるはずですが、今のところ以下程度の情報しか出ていない。
天皇陛下ら出席「講書始の儀」 学問の第一人者による講義
[2025/01/10 12:15] テレ朝NEWS
天皇皇后両陛下らがさまざまな学問の第一人者から講義を受ける、「講書始の儀」が皇居で行われました。
大阪大学の武田佐知子名誉教授は、日本古代の服装などについて講義し、奈良時代に東大寺の大仏開眼に出席した聖武太上天皇と妃の光明皇太后、娘の孝謙天皇が同じ白の礼服だったと指摘しました。
そして「古代に6人、8代の女性の天皇が現れたのは、男女同形の礼服の存在が大きいと思っている」と述べ、両陛下らは熱心に耳を傾けられていました。

天皇の礼服 袞衣(こんえ、こんい)
・『養老律令(757年)』の「衣服令」には、皇太子以下の服装の規定は存在するが、天皇の服装に関する規定は存在しない 。
皇太子の礼服は「黄丹衣」と定められており、それが赤みがかった黄色であることは明らかだが、天皇の礼服の色については不明である。
・正倉院には「礼服御冠残欠」として、聖武天皇(太上天皇)および光明皇后(皇太后)の礼冠の残欠と二人の礼服を納めたことを示す木牌を収めた函が伝わっている。
礼服は失われているが、木牌の裏面には「天平勝宝4年4月9日」 大仏開眼の日付が記されており、納められていた礼服が大仏開眼の日に使用されたものであることが解る。
・礼服は失われているが虫干しの記録である延暦12年(793年)の『曝涼使解(ばくりょうしげ)』 弘仁2年(811年)の『勘物使解(かんもつしげ)』 によれば、聖武天皇(太上天皇)は帛袷袍(はくのあわせほう)、即ち白絹の袷の袍を着ていたと考えられている
😯 正倉院御物として納められていたのは、大仏開眼当日の聖武天皇と光明皇后の礼服だけで、虫干しの記録から解るのは当日の聖武天皇の礼服が白絹の袷だったらしい、、ということだけ。
光明皇后と孝謙天皇が当日どのような礼服を召していたか、不明ということでしょう。

光明皇后と孝謙天皇が同じ装いだったかもしれないじゃないですか。
『土右記』に記された内蔵寮に保管されていた女性天皇(女帝)の礼服は、「大袖、小袖、裙等皆白綾無繍文」であった。
この女帝は孝謙天皇を指すと言われていますが、
女帝 大袖・小袖・裙
これ奈良時代の女性の装いです。

1 宝髻(ほうけい)
2 釵子(さいし)
3 花鈿(かでん)[眉間および唇の両側に描かれた朱、藍等の化粧、花子ともいう]
4 衣(い)[大袖]
5 内衣(ないい)[小袖]
6 裙(も)[うわも]
7 紕帯(そえひも)
8 領巾(ひれ)[比礼]
2 釵子(さいし)
3 花鈿(かでん)[眉間および唇の両側に描かれた朱、藍等の化粧、花子ともいう]
4 衣(い)[大袖]
5 内衣(ないい)[小袖]
6 裙(も)[うわも]
7 紕帯(そえひも)
8 領巾(ひれ)[比礼]
頭の飾りを変え7,8を省けば上の絵画の光明皇后、孝謙天皇の装いになります。
正倉院文書に残されている聖武天皇の礼服一式は
- 帛袷袍:1領
- 襖子:2領(絮綿1、袷1)
- 汗衫:1領
- 褶:1腰(羅襴)
- 袴:1腰(絮綿)
- 袷幞子:2條(各2副)
養老律令に定められた文官の礼服

1 礼服(らいふく)の冠(かん) 2 衣(い)[大袖] 3 内衣(ないい)[小袖] 4 内衣(ないい)の襴(らん) 5 紗(すずし)の褶(ひらみ)[うわも] 6 白袴(しろきはかま) 7 條帯(くみのおび)[綬(じゅ)][長綬(ちょうじゅ)] 8 唐大刀(からたち)の緒 9 唐大刀 10 玉珮(ごくはい) 11 (せきのくつ)[烏皮(くろかわ)の鼻高沓(はなたかくつ) 12 牙笏(げしゃく) 13 綬(じゅ)[短綬] |
こちらに近い。

孝謙天皇の当日の装いが不明なのに大胆な結論。
想像を元に出した結論なので、「と、思っている」としか言えない。
思うのは自由ですが科学的結論とするには証拠と言えるような証拠がない。
先ずは「男女同形の礼服」が存在したことを証明しないとね。
😐 令和になってから、今上ご一家は女性天皇に関するご進講を度々受けるとともに、悠仁殿下を忌避するようなお振舞もあるなど、近頃は本気で皇位を秋篠宮へ渡さない算段をしているのではないか、どうしても皇位を手放さなくてはならないのなら思い切り嫌がらせしてやる、、と根性の悪いことを考えているのではないか、と疑念が湧いてきました。
皇室で一番のやり手、かつ秋篠宮嫌いの久子さまが今上ご一家に肩入れされているとあっては、何が起きるかとハラハラします。私の杞憂であればお笑いください。
昔、高円宮の姉妹が学習院で眞子さま佳子さまをいじめていると、当時の週刊誌が書いたこともありましたね。ウソか本当か分かりませんが後年の久子さまの秋篠宮への態度を見ていると本当だったかも?
数少ない宮家間に交流がなさそうなのでさえ興ざめなのに、天皇皇后自ら皇室の分断に動くとは…
皇室はどうしてこんな有様になってしまったのか。
それも令和に入ってからバタバタと急速に…