その日は漆の研修の最終課程の「上塗り」の日だった。師匠の冨士原文隆氏とともに上塗り部屋(クリーンルーム)に入り手順を確認しながら溜塗りの仕上げを塗る。予定していた三分の二ほどを塗り、大物の片口の上塗りに取り掛かっていると、大きな揺れがきた。私は片口と上塗り刷毛を手に混乱する。師匠は窓を開け、外に避難した人たちに落下物のこない安全な室内に入れと叫び、そのまま窓から飛び出した。
研修所内は停電し、漆の入った皿が落下散乱。家族が心配。なんとか繋がった携帯電話で安全を確認。家族と自宅で落ち合う連絡を取るが、その後携帯は繋がらなくなってしまう。車で自宅に向かうこととする。自宅までは42km。
もともと信号はほとんどないのだが、全域で停電。信号は消えている。市街地から帰る家族が心配だがもう携帯は繋がらない。
カーラジオをつけると「沿岸に30mの大津波、至急避難」と叫んでいる。これは現実なのだろうか?
走りながら日常はしばらく戻らない、と考える。必要なものは何だ?
食料・水・灯り・暖・情報・・・・・食料以外準備はない。
山を下り、西根市街に。途中全国チェーンのホームセンターに寄る。店内めちゃめちゃで、スタッフも少ないため対応不可能とのこと。
さらに西根中心部のホームセンターに向かう。多くの人が集まっている。店内めちゃめちゃで入れないとのこと。だが店舗前に長テーブルを出して、停電のため手書きで販売に対応している。希望する商品を言うと店員が(長靴で)店内に入り商品を持ってきてくれた。揺れから約一時間後くらい。店員も様々心配であろうが、大柄の社員の指示でテキパキと対応している。隣の大型スーパーでは店頭にお弁当を出して販売を始めた。ペットボトル飲料、お菓子、カップ麺も並べている。
今思い出しても、この二店舗の対応は素晴らしいと感じる。私は水・ポリタンク・ラジオ・懐中電灯・カセットコンロのカセットを入手し、さらに15kmほどかかる自宅に向かう。「電気を使わない暖房器具」は入手できなかった。途中国道沿いのコンビニに寄るが、食料はほとんどない。
自宅内はめちゃくちゃで、揺れで全ての引き出しが開いており家具が動いていて信じられない状態。ネコは部屋のスミに隠れていた。まずは水を確認。出るようなので風呂に水を溜めポリタンクも満タンにする。しばらくすると水は出なくなった。家族が帰宅、無事を喜ぶ。家の中は散々で、吊るして乾かしていたリールシートは全部落下。一本釣竿が折れていた。
寒い夜を懐中電灯とラジオで過ごす。圧力鍋でとカセットコンロでコメを炊いた。
ラジオから沿岸壊滅的な被害の報。これは現実なのだろうか?
翌日から三日は電気水道が来なかった。この三日である程度の生活の整理をする。ガソリンが入手出来ず移動がこわい。全ての公共移動手段が止まっている。長距離移動は不可能で、無理をすれば大きな迷惑がかかる。長く住んだ大船渡が心配だが、移動する術がない。
大きな犠牲者が出たのは早い時期に分かった。3月の終わりに研修修了の作品展を行う予定だったが、中止とした。修了製作の釣竿は5本から3本に減った。激震時に塗っていた漆器は、回転風呂の電源が入らないため全部ダメかと思ったが、一年後輩の内記氏(現漆工ナイキ)が夜な夜な手で回転させてくれて、成功した。自宅で今も使っている。
ガソリンの入手が安定するのに一か月以上かかった。ボランティアの報が流れるが、4月に入り漆の研修を終えて新しい生活を作らねばならなかった。沿岸には向かえない。
結局沿岸に向かうことができないまま、何年も経ってしまった。復興の様子はテレビ見ていた。被災した友人の安否、無事だった友人、不明な知り合い。私から連絡を取るのは心苦しく、心の中に厳しいものが残ったまま、何年も過ごす。
きっかけをくれたのは、エキチカの漆市をはじめて行った時に場所を貸してくれた店舗の店長A氏で、大船渡店のO店長を紹介していただく。「大船渡で漆器の催事をしないか?」。確かに沿岸での漆器の催事は少ない。挨拶に、何年かぶりに、大船渡に向かう。催事の店舗は当時住んでいた場所のすぐ近くだった。私の住んでいた須崎川沿い野々田茶屋前は津波の被害が大きく、全くもとの面影はなかった。挨拶に周り、はじめて恩人の安否を知った。