渡辺三右衛門の詳細
渡辺三右衛門陳好「のぶよし」は、文化四年(一八〇七)福島村に(現群馬県佐波郡玉村町福島)に生まれました。
父詮季「あきすえ」は、角渕村(現群馬県佐波郡玉村町角渕)名主小屋原佐五右衛門の弟詮勝
「あきかつ」の、二男で、三右衛門綱忠の長女に迎えられましたが、早世したので後妻を迎えました。
その長男が三右衛門陳好です。初代の三右衛門重綱は箕輪城主長野氏に仕え、
その後浪人となり福島村に帰農しました。
陳好は9代目となります。
三右衛門は、初め南玉村(現群馬県佐波郡玉村町南玉)町田四郎右衛門の二女を妻として
迎えましたが、早世したので、角渕村高橋武左衛門の長女美紀を後妻に迎え、
天保元年(一八三〇)には長男半六好直「はんろくよしなお」が生まれました。
父も福島村の名主役を勤め、三右衛門も若くしてその役を勤めました。日記をつけ始めた、
三十六歳時で組頭を勤めていました。弘化三年(一八四六)には玉村宿外二十四ケ村
改革組合村(文政壱拾年に幕府により関東全域に悪党の取締や防犯の強化のために編成された。
組織の大惣代となり、慶応弐年(一八六六)に罷免されるまで弐拾年間勤めました。
玉村宿外二十四ケ村改革祖合村には福島村も属していました。福島村は、旗本の大久保氏
(二百九十五石)と、島田氏(五百九十七石)の二人の領主により支配され、家数は全体で、
参拾九軒、人数は二百二十三人で三右衛門は大久保氏の支配に属していました。(慶応弐年)
明治二十五年(一八九二)、三右衛門は八十六歳で亡くなりました。
戒名「厚徳院宝満仁英好翁居士」
続く