火札・落文・張札について
徳を名指しで「焼き払う」という火札への対応は難しい。もちろん不法であるので、犯人を捕らえて事態を究明出来れば
問題ないが、不特定多数を装う火札は、相手は特定するが、書き手自らは明かさない。
幕末の上州では落文、張札と並んで珍しい現象ではなかった。蚕繁昌は人々の識字力の高揚をもたらし、
喜怒哀楽を文字で表す能力を身につけ始めていた。
これらは正式な小難しい訴願手続を経ずに直接要求を突きけられることから、急速に人々の間に流布した。
火札は怨みなどがある個人を狙って、放火を予告して恐喝するものであるが、落文、張札は年貢その他負担の軽減や村役人の
不正等政治的要求を貫徹しようとするものが多かった。しかし、次第に日常的、私的なトラブルを背景にした火札の類が多くなった。
在郷町桐生新町では張札、火札が乱発され、人々はとりたてて騒ぎ立てることはなくなっていた。
幕末革新の動乱只中の世直し一揆勢の張札には、「又張札と笑、今ニ見ろ」(また張札かなんて笑っていろ、今に見てろ、
必ず焼き払ってやる)と念を入れたものまで現れた。
火札は通常名指しした家の戸口に、人眼に付かず素遠く貼りつけられる。「大札」と目立つよう
大書し、その後に詳しくその謂れ、経緯を記したものが多い。
徳を狙った「火札」は、玉村宿の公共空間、お上が宿民に触書を以て仁政を知らしめる高札場に貼られたのである。
徳という個人を指名しながら私的な火札の様式ではなく、宿民に目立つような大きなものであった。
もちろん徳は未だ玉村宿に1軒構えるに至っていないのだが。
続く