三右衛門は徳の後見となることが、満更でもなかったようである。
これで、三右衛門は誰に憚ることなく、堂々と妾宅ならぬ徳の大造りの赤城型民家に、
出入りするようになって行くのである。
徳の深謀遠慮は徐々に、本音が出てくる。三右衛門が後見になる直前の正月二十五日には、
徳の実弟の田村仙岳が三右衛門を高崎千手観音参詣に招待して、一泊させ、甥の半田村利三郎を
引き合わせている。田村仙岳は、忠治傑刑直後の嘉永三年十二月三十日に、高崎観音で著名な、
清水寺(せいすいじ)に転位した。
翌二十六日には高崎扇短の二階に三右衛門を案内し、徳、母、利三郎、伊三郎の四人で。
歓待している。まさに徳の有馬村一合家の肉親との顔合わせの儀礼である。
本丸に向かって外堀は埋まった。
正月三十日には、三右衛門は公務の余暇を縫って玉村宿旅龍大津屋源助に酒を馳走している。
大津屋源助こそ、徳が三右衛門を介して店借りしようと企む相手先であった。
前に述べたように、徳を送り出す五目牛村の方は固まった。事は順調である。あとは玉村宿の同意を
得るだけである。
ところが事態は思わぬ展開となる。月が替わった二月十一日、徳が玉村宿に移住することを拒む
火札(火付札。放火する旨を記した札)が高札場に貼られたのである。
三右衛門日記には、その様子が残っている下記の通りである。
嘉永五年二月十一日 風少々吹、昼前ハ東風、八ツ頃より北風二成ル、(中略)
玉村宿六丁目高札江五目牛村とくと申人、当宿江参り候ハヽ急度(きつと)焼払申候と
火札張有之候、
右之札建具金と申もの見付、三好や申来ル、折節本陣雅之丞殿も居合候、
亦々(またまた)とうふや亭主尚又申来ル
風が少し吹く、昼前は東風だったが、午後二時頃から北風に変わった。玉村宿六丁目に
建つ高札に、何者かが「五目牛村とくと申す人が当宿に来るならば必ず焼き払うぞ」と書いた火札が
張ってあった。これを建具屋の金が見付け、三好屋が三右衛門のところへ注進して来た。
その節本陣の雅之丞も居合わせた。また更に豆腐屋の亭主も言って来た。
続く