二月二日、福島戦死の内報が妻キヱのもとにもたらされた。キヱは弘前の実家のもとに身を寄せていた。
キヱは直ちに、群馬の父泰七に、この事を報らせた。戦地にある
立見師団長にも、福島の戦死の模様をたずねる便りをしたためた。
明治三十八年三月二十八日、福島泰蔵の葬儀 斎場は、弘前市新寺町の
名刹、報恩寺。
津軽薄主の 菩提寺である。寺の周囲には、堀をめぐらし、下乗橋が架けられてあった。
葬儀は、第八師団の留守師団長が、総指揮官。
弘前各部隊から葬委員が選任され、師団葬の扱い。
これらに、関係官公署の官吏、一般の会葬者が合流した。
群馬からも、弟甚八と、姉達が参列。出棺は、成田良之前宅から。
この日、午後一時、喇叭兵が吹奏する哀しみの音を合図に、
先頭前列に騎兵が三騎。続いて儀礼兵の一団が先行。
次に霊柩車を兵士の一団が曳き出した。この霊柩車の両側には、
師団の葬儀委員、佐藤弥六等の会葬者総代が、これを守り進んだ。
続して、喪主長女(一歳一ヵ月)みさおが、親族に背おわれ、未亡人キヱは、
白無垢の喪服で、愁然と従った。白張提灯をかざした葬儀行列は延々と続いた。
行列の後尾にも、儀礼兵の一団が配置され、最後尾には、
後列騎兵二騎が従った。斎場、報恩寺の本堂では、報恩寺の住職が
導師となり、しめやかにお経が、あげられた。又、特別に、導師により、
故陸軍歩兵少佐・福島泰蔵の
「追悼文」が朗読された。この間、儀礼兵が境内で弔銃を三発。続いて、
大本営陸軍幕僚将校一同からの弔文が読みあげられた。(恒吉参謀長代読)
ついで、青森県知事、弘前市長、天台座主大僧正山岡親澄、
大本山永平寺貫主森田悟由、総持寺貫主所西有穆桧山、
眞宗本願寺派本山の僧等の破格の弔辞が朗読された。
特に、盟友、佐藤弥六か弔文を読みあげた時は、鳴咽、絶句。参列者の涙を
さそったという。これは、関係者の語り草。この日の会葬者は、五百余名。
沿道の市民は、厳粛で物々しい葬儀行列に、在りし日の故人をしのび、
彼の勇気を称え合い、冥福を祈った。
因みに記す この日は、月こそ変われども、彼が戦死した日、
突撃時間に合わせて執行された。彼が戦死時の所属原隊は、
山形歩兵第三十二連隊。その福島の葬儀は、彼が第二の故郷として
心血をそそいだ弘前城下でしかも、師団葬の扱い、その名も、
名刹報恩寺で執行された。
余栄これに過ぎるものはなかろう。
この師団葬の扱いは、明治天皇と、大本営の陸軍幕僚
(参謀部と副宮部を合わせていう)と立見師団長の意向配慮、指令なくしては、
執行出来ないものであった。
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