2011年5月25日(水)
昨日の文芸誌合評会に出したエッセイです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「夏は来ぬ」
「この分では、今度の夏は……、厳しいです。急変もありえます」
母の主治医との面談で伝えられた言葉が胸元につっかえている。母にどんな顔をして会ったらいいのだろうと、
強張った頬を指先で解しながら病棟二階のリハビリ室へ向かうと、入り口の壁には、大きな折り紙のお雛様が
まだ飾られていた。奥へ目をやると、藤色のキルティングを羽織り車椅子に座った母の姿が見える。
療法士さん二人が話しかけてくれているようだ。
「髪の毛をカットして、可愛くなったわね」
と、若々しい声が聞こえてくる。近づくと、母は、私を見上げて、
「あら、久しぶり」
と、微笑む。いつものことなので、
「いやいや、今週は火曜日にも来てるって……」
と受けると、
「えっ、そうだった?」
と、目を見開いた後、母は療法士さんたちに、
「私の娘です」
と、紹介した。その様子に、
――私って分かるなんて、絶好調じゃない。今の今は、頭がこんなにクリアだなんて。
と、むしろ不思議な気がした。療法士さんが私に会釈してから、
「藤枝さん(仮名)、可愛いんですよ~。私も、藤枝さんみたいな可愛いおばあちゃんになりたいなあ。
なれるかなあ?」
と、母に笑いかけると、
「まだ若いから、おばあちゃんにはなれないのよ」
と、母は真面目な顔で答え、療法士さんたちは、笑い声をあげる。
――この穏やかな光景はいつまで続けられるのだろう?
曖昧に頷いている私を見て、母は、
「私の娘です」
と、再び療法士さんたちに紹介したが、彼女たちは、にこやかなままだった。それから母は、
「ねえ、私はなんでここに居るの?」
と、私をすっと見上げた。私は、
「リハビリして……元気になるためよ」
としか答えようが無い。母のリハビリは、一日一日、体の機能を維持するためのリハビリであって、
退院を目指すようなリハビリではないのだ。すると、母は突然、
「私の人生は何だったのかしら?」
と、言い出した。
――いやね、なんだか、最期の言葉みたい。
どうしたの?
なんで、そんな大きな答えを、いきなり私に……?
つい先ほどの主治医の言葉に呼応するような母の言葉に、なんと答えればいいのだろう。
いや、専業主婦だった母の人生、一言でなんて言えないし……。母の口から飛び出したその言葉は、
母と同じように専業主婦で子供たちを育て上げ、夫に先立たれた私自身の今を冷風のようにひや~っと
掠めていった。口ごもった私の横から、やや年かさの療法士さんが、
「藤枝さん、ご主人を支えて、こんな立派なお子さんを育てたんでしょう?立派な人生ですよ」
と言葉を添えてくれた。私が立派なお子さんとはと、面映い。だが、おかげで母は、
「そうかしらね」
と、納得したように笑い、矛先が逸れてくれた。
――立派な人生……本当は、私の口から言ってあげなくちゃいけなかったんだよね。
でも、立派って、なんか違うような。
いろいろあったけれど、頑張ったね……くらいか。
いや、それは私が言ってもらいたいんで、
お母さんは、立派って娘に言ってもらいたかった?
母の車椅子を押す療法士さんとともに病室へ戻ろうとエレベーターを待つ間に、彼女が、
「藤枝さんは、ずいぶんお元気になりましたけれど、この先はどうされるんですか?」
と、言い出した。若い彼女の立ち入った質問に、私は不意をつかれた。
――この先? 退院の後? お母さんにはそんなものは無いのに、分からない……?
母の耳に入るのを憚って、私は、にこにこと答えを待つ彼女に、
「まあ、一人暮らしだったので、いろいろあって、なかなか……」
と、言葉を濁し、受け流した。
その時、母が、小さな声で呟きだした。何?と、顔を近づけると、歌を歌っている。
「う~のはな~の におう かきねに~」
――『夏は来ぬ』だわ……。
でも、なんで突然、『夏』なの?
さっきの先生の話が、お母さんには、お見通しなんだろうか?
どんな夏が来るかまで……。
なんだか、一歩、〈この世から外へ〉踏み出したような……。
いや、そんなこと考えちゃいけない。
夏へ粛々と歩み始めたように、母は、
「なつ~は きぬ~」
と、静かに歌い続ける。そのか細い声は、傍らに立つ私の身体に沁み込んできた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ハハの歌、最近は、何を歌っているのか、良く分からなくなった。
でも、ハハには、歌が残っているんだなあと、思う・・。
昨日の文芸誌合評会に出したエッセイです。
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「夏は来ぬ」
「この分では、今度の夏は……、厳しいです。急変もありえます」
母の主治医との面談で伝えられた言葉が胸元につっかえている。母にどんな顔をして会ったらいいのだろうと、
強張った頬を指先で解しながら病棟二階のリハビリ室へ向かうと、入り口の壁には、大きな折り紙のお雛様が
まだ飾られていた。奥へ目をやると、藤色のキルティングを羽織り車椅子に座った母の姿が見える。
療法士さん二人が話しかけてくれているようだ。
「髪の毛をカットして、可愛くなったわね」
と、若々しい声が聞こえてくる。近づくと、母は、私を見上げて、
「あら、久しぶり」
と、微笑む。いつものことなので、
「いやいや、今週は火曜日にも来てるって……」
と受けると、
「えっ、そうだった?」
と、目を見開いた後、母は療法士さんたちに、
「私の娘です」
と、紹介した。その様子に、
――私って分かるなんて、絶好調じゃない。今の今は、頭がこんなにクリアだなんて。
と、むしろ不思議な気がした。療法士さんが私に会釈してから、
「藤枝さん(仮名)、可愛いんですよ~。私も、藤枝さんみたいな可愛いおばあちゃんになりたいなあ。
なれるかなあ?」
と、母に笑いかけると、
「まだ若いから、おばあちゃんにはなれないのよ」
と、母は真面目な顔で答え、療法士さんたちは、笑い声をあげる。
――この穏やかな光景はいつまで続けられるのだろう?
曖昧に頷いている私を見て、母は、
「私の娘です」
と、再び療法士さんたちに紹介したが、彼女たちは、にこやかなままだった。それから母は、
「ねえ、私はなんでここに居るの?」
と、私をすっと見上げた。私は、
「リハビリして……元気になるためよ」
としか答えようが無い。母のリハビリは、一日一日、体の機能を維持するためのリハビリであって、
退院を目指すようなリハビリではないのだ。すると、母は突然、
「私の人生は何だったのかしら?」
と、言い出した。
――いやね、なんだか、最期の言葉みたい。
どうしたの?
なんで、そんな大きな答えを、いきなり私に……?
つい先ほどの主治医の言葉に呼応するような母の言葉に、なんと答えればいいのだろう。
いや、専業主婦だった母の人生、一言でなんて言えないし……。母の口から飛び出したその言葉は、
母と同じように専業主婦で子供たちを育て上げ、夫に先立たれた私自身の今を冷風のようにひや~っと
掠めていった。口ごもった私の横から、やや年かさの療法士さんが、
「藤枝さん、ご主人を支えて、こんな立派なお子さんを育てたんでしょう?立派な人生ですよ」
と言葉を添えてくれた。私が立派なお子さんとはと、面映い。だが、おかげで母は、
「そうかしらね」
と、納得したように笑い、矛先が逸れてくれた。
――立派な人生……本当は、私の口から言ってあげなくちゃいけなかったんだよね。
でも、立派って、なんか違うような。
いろいろあったけれど、頑張ったね……くらいか。
いや、それは私が言ってもらいたいんで、
お母さんは、立派って娘に言ってもらいたかった?
母の車椅子を押す療法士さんとともに病室へ戻ろうとエレベーターを待つ間に、彼女が、
「藤枝さんは、ずいぶんお元気になりましたけれど、この先はどうされるんですか?」
と、言い出した。若い彼女の立ち入った質問に、私は不意をつかれた。
――この先? 退院の後? お母さんにはそんなものは無いのに、分からない……?
母の耳に入るのを憚って、私は、にこにこと答えを待つ彼女に、
「まあ、一人暮らしだったので、いろいろあって、なかなか……」
と、言葉を濁し、受け流した。
その時、母が、小さな声で呟きだした。何?と、顔を近づけると、歌を歌っている。
「う~のはな~の におう かきねに~」
――『夏は来ぬ』だわ……。
でも、なんで突然、『夏』なの?
さっきの先生の話が、お母さんには、お見通しなんだろうか?
どんな夏が来るかまで……。
なんだか、一歩、〈この世から外へ〉踏み出したような……。
いや、そんなこと考えちゃいけない。
夏へ粛々と歩み始めたように、母は、
「なつ~は きぬ~」
と、静かに歌い続ける。そのか細い声は、傍らに立つ私の身体に沁み込んできた。
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ハハの歌、最近は、何を歌っているのか、良く分からなくなった。
でも、ハハには、歌が残っているんだなあと、思う・・。