(信玄夫人陽雲院のお墓)
(本庄宿8)
中山道に戻って、すこし進むと左手に「陽雲寺」がある。
ここは、武田信玄夫人の陽雲院が、
晩年を過ごしたところといい、
墓地の奥には、そのお墓もある。
(信玄夫人の墓石)
もうお判りと思うが、「陽雲寺」の名は、
信玄夫人の号から採ったものである。
また、前述の金窪城主であった畑時能(はたときよし)と
その家臣児玉光信の墓(供養塔)が、
寺院の参道入り口に畑児塚(はたこづか)と呼ばれ残っている。
(畑児塚)
説明によれば、
(参道脇にある石の祠(ほこら)は、
新田義貞の家臣で四天王の随一と呼ばれ、
金窪城に居住した畑時能の供養祠と伝えられる。
時能は秩父郡長瀞町の出身で、義貞戦死後も南朝方のため
孤軍奮闘したが、暦応二年(1339)越前の国で、
足利方に討たれた。
従臣 児玉五郎左衛門光信が時能の首級(しるし)を
携えて敵陣を脱出し、当地に持ち帰り供養した。
後に光信も時能の墓側に葬られ、二つの石祠が建立され
両者の名をとって「畑児塚」と呼ばれるようになった。)
(上里町教育委員会)
陽雲寺の本殿の右側に鐘楼があるが、
ここにある鐘は銅製で、頂部分の竜頭が上向きで
朝鮮式と呼ばれる鐘である。
高さ190cm、口径98.3cm、
縦帯に仏像四体を鋳造し、
下帯には唐草文、駒の爪には蓮弁を施し、
乳頭は四面に25個ずつ百個、縦帯に二個ずつ八個、
計108個を鋳出す。
これは百八つの煩悩を表したものである。
池の間に長文の銘あり、天命鋳物として栄えた
下野国佐野(栃木県佐野市)の鋳物師
井上元峰によって、元禄八年(1695)に
鋳造されたことが分る。江戸時代中ごろの優れた
銅鐘の一つとして、国の重要美術品に認定されている。
(埼玉県・上中里町 両教育委員会)
(上向きの竜頭)
(鐘の全体)
境内には、明治28年日清戦争に従軍し、
戦死した兵士の墓が沢山目に付く。
本堂前から、旧中山道に抜ける出口の山門からは、
はるかに広がる畑と上州の山々、
それに紺碧の空が広がり、とても美しかった。
(陽雲寺の山門から晴れ上がった空が美しかった)