(新島襄旧宅)
(安中宿9)
板鼻宿から安中宿に入る「久芳橋」たもと「下野尻」の信号を
左方向に入ってからの旧中山道の道路は、妙義山に向かって長い
なだらかな上り坂になっているので、進むのに足の疲れが気になる。
旧安中藩武家屋敷を後にして、旧中山道に戻って西に向かうと、
すぐ左側に安楽寺がある。
道路が上り坂にあるせいで、寺の奥は急な下り斜面になっている。
その斜面にお墓が沢山並んでいるが、斜面を下り終えたところに
「橋供養塔」「道祖神」「庚申塚」が並んでいる。
(安楽寺入り口)
(安楽寺墓下の橋供養塔、道祖神、庚申塔)
(便覧社跡の碑)
(愛宕神社の御神灯)
安楽寺を出て中山道を西に進むと左側に「便覧舎跡」の石碑がある。
図書館発祥の碑である。
さらに進むと右側に愛宕神社があり、入り口には安政二年の御神燈がある。
その先左側に新島襄先生旧宅入り口の案内看板と大きな道祖神が立っている。
道祖神は弘化4年(1847)とある。
案内に沿って左折すると、必要なところに新島襄旧宅への案内があるので
迷わず旧家にたどり着く。新島襄旧宅は以前あった場所から、やや西側に移築されている。
(新島襄旧宅入り口の案内と道祖神)
(新島襄旧宅入り口の標柱)
(新島襄旧宅の座敷側、奥の突き出たところがトイレ、手前は台所)
安中藩は三万石の小藩であった(旧中山道を歩く 94 参照)ので、
藩士の住まいも質素なものであった。
新島襄旧宅も元は二軒長屋であったが、そのうちの東半分を切り取り移築したもので、
西半分は新築して管理人室・資料室を設け、外見は茅葺き二軒長屋になっている。
東半分は当時のまま移築し、間取りなど再現している。
座敷には床の間があり、新島襄が揮毫した掛け軸が掛かっていたが、
本物であれば骨董品として値段のつけようも無い高価な品物である。
右筆(ゆうひつ=書記)の跡取りらしく、見事な達筆な文字が書かれていた。
いつも見学者のために、明かり障子が開け放たれているせいで、
掛け軸が風にゆれ、後ろの壁が削れている。掛け軸はレプリカであるが、
それにしても削られる壁にも注意を払って欲しいものである。
折角の古い建造物である、大切にしたい。
管理人を兼ねるボランティアガイドの話では、
「新島襄の父は、江戸で右筆(書記)を勤め、四人の娘がいた。
跡取りの息子が欲しいと願っていたところ、五人目に男子が誕生。
(これはしめた!)とばかり、(しめた=七五三太)と名を付けた。
幼名 七五三太(しめた)の新島襄は才気活発な子供であった。
幼少のころ、下駄を履いたまま木登りをして木から落ち、
頭に怪我をして長いこと病床についた。
今でも写真を見ると左こめかみに傷跡が残っている。
その怪我で病の床に臥しているとき、
父親がいろいろな知識を授けるが、一度聞くとすべて諳んじた。
その様子を見たか聴いたか、
その才能を買ったのが、英邁の誉れ高い藩主の板倉勝明である。
藩主板倉勝明は、西洋砲術など取り入れるほどの名君であったので、
七五三太(しめた)を脱藩させ、アメリカで勉強するよう仕向ける。
徳川譜代の大名が国禁を犯して、
家臣をアメリカにやることははばかられたので、
家臣が勝手に脱藩したことにした。
七五三太(しめた)の新島襄は、江戸の港より船で北海道に渡り、
そこからアメリカの船に乗り継いで出国しますが、北海道までは、
藩主 板倉勝明所有の船で北海道に行っている。
アメリカ行きの船長が七五三太(しめた)では呼びにくいので、
ジョーと呼び、以来アメリカではJoe(じょー)で過ごした。
国禁を犯してアメリカに渡り大学を卒業し、キリスト教に触れ、
信者になり神学校を卒業、牧師になる。英語も身に付け帰国。
岩倉遣外使節団で通訳が必要とされたとき、藩主板倉勝明に推薦され、
通訳として再度アメリカに渡り欧米の教育をつぶさに視察した。
そのとき国禁を犯したものが使節団の通訳では都合が悪いと、
名を改め七五三太(しめた)から
新島襄を名乗るよう藩主に命名されたという。
新島襄の父母共に新島姓ではなく、
父方と母方の姓から一字づつもらって新島としたとの事である。
さて、一方でアメリカのキリスト教団から日本に布教にきた牧師の仕事がはかどらないので、
新島襄が呼ばれ布教の手伝いをするが、
布教は遅々として進まず、
明治八年に京都の旧薩摩藩邸跡を買い、
同志社大学の前身同志社英学校を開校した。}
以上が新島襄旧宅のボランティアガイドの説明でした。
ガイドさんに「名前の七五三太(しめた)は、
子沢山の両親が子供はこれで終わりにしたい。
〆(しめ)にしたい願いから付けたのではないですか?
「留吉」とか女の子なら「留(とめ」としたように)と聴いたら、
「そんなことはありません。現に七五三太(しめた)の後に雙六と言う弟がいます」
と切りかえされてしまった。(笑)
また、「ある日、夕方五時ごろ旧宅を閉館しようとしたら、
黒塗りのハイヤーに乗ったご婦人が飛び込んできて
大きな声で(閉めないで、もう少し待ってください)という。
遠くからいらっしゃたと思い、
サービスで案内を延長する事にしたら、
どこかで見たお顔、お名前を聞いたら
(土井孝子です、大変お世話掛けました。
私は同志社出ですので、
近くに来たので生家をお訪ねしたいと急いできましたが、
時間外で申し訳ありませんでした)と仰った。
元衆議院議長のおたかさん(土井孝子さん)でした。〆ないで良かったです。」
と最後まで〆にこだわった駄洒落と共に
得意そうに話されたのが印象に残った。
(道路から見た新島襄の旧宅、ここには3週間しか居住していない)
新島襄旧宅を出て中山道へ戻る。
しばらくすると国道18号線と交差するが、
ここでも旧中山道の案内は京都のほうからの案内がしっかりしている。
(京都方面からは旧中山道の案内がある)
交差点をわたり終えると、まもなく昔の街道を思わせる杉木立が見えてきた。
途中に道祖神などがあるが、日光の杉並木、東海道の箱根の杉並木と比べると、
明るくて舗装道路で、昔を偲ぶことは出来ない。
しかし、文部省の重要文化財に指定されている。これも京都側に石碑があり、
「安中原市杉並木」と刻まれている。
ここから杉並木は始まり、東京方面に延びている。
(杉並木の案内看板)