中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

五料村と夜泣き地蔵(旧中山道を歩く 100)

2007年05月30日 11時07分12秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

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(五料村高札場跡の看板、右奥が五料茶屋本陣)

(松井田宿 3)
「旧中山道を歩く」も記念すべき100回になった。
距離にして、日本橋から125km程度しか進んでいない。
旧中山道(日本橋から京都三条大橋まで)533kmからすれば、たかだか23%にしか当たらない。
それでもすこしづつ京都に近づいて行く。
時間だけはタップリある、あせらずゆっくり歩こう。
楽しみはその土地に残る史跡、伝説、何よりもその土地土地に
住む人たちに接する事ができることだ。

中山道の話に戻る。
信号を渡って左折、すこし歩くと右側に白い立て看板があり、
次のように記されている。

「安中藩 板倉伊予守領分 五料村 高札場跡」

その看板の手前を右折すると、信越線の踏切があり、
その向こう側に五料茶屋本陣が正面に見える。

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(踏切を渡った正面にあるのが「お東」)

中山道の松井田宿と横川の碓氷関所のほぼ中間で
奇岩峰の山として有名な妙義を眼前にする山懐に建っている大きな二軒の家が
「五料の茶屋本陣」で、向かって左、
西側に見える家が「お西」、
東側に位置しているのが「お東」。

「お西」についての説明によると、
「五料茶屋本陣・お西は、江戸時代の名主屋敷であるとともに、茶屋本陣でもありました。
茶屋本陣とは、中山道を参勤交代などで往来する大名や公家などの休憩所としておかれたものです。
この(お西)中島家は、16世紀末から、代々名主役を勤め、
特に天保七年(1876)から明治五年(1872)まで(お東)
と一年交代で名主役を務めました。
この建物は(お東)と同じ年(文化3年)に建てられたもので、
間口13間、奥行き7軒の切妻造りで、両家の母屋の規模、平面とも
ほとんど同じで、白壁作りの良く映えた屋敷構えに当時を偲ぶことが出来、
中山道の街道交通を知る上で貴重な史跡です。」
(群馬県教育委員会・松井田町教育委員会)

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(「お西」の石柱)

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(五料茶屋本陣の入り口から望む「お西」)

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(本陣の全貌)

美しく整備された史跡の保存状態に感心する。
僕が訪問したときは、月曜日で休館日に当たっていたが、
係りの人が、親切にも中に招きいれ資料など下さり案内して頂いた。
こんなところにも安中市の住人の親切が旅人には
身にしみるところである。
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(旧中山道の案内看板)

中山道に出て進むと、すぐ右側に「左 坂本5,5km 右 松井田宿2,8km」の
標柱が立っている。この標柱は街中を除き、どうやら五百メートル間隔で立っているようだ。

中山道はしばらく信越本線と並んで歩くが、やがて踏み切りと交差し、
線路の北側に出る。踏切には榎踏切と書いてある。
道路は山道に差しかかり馬頭観音や元文五年の青面金剛、馬頭尊などの五基の石造物がある。
その先すこし上り坂が急になった左側に、「夜泣き地蔵」と呼ばれる大きな地蔵尊や
庚申塔、馬頭尊、その前に石でたたくと茶釜の音がする茶釜石がある。

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(榎踏切)

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(青面金剛などのある石造群)

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(夜泣き地蔵と茶釜石)

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(夜泣き地蔵の頭)

五料村では、この茶釜石は有名であったので、山道に入ってからでは、
叩く石も見当たらないと具合が悪いと思って、
前もって大きな石をポケットに忍ばせておいた。
しかし、その用心も甲斐なく、現場に到着するとなんて事は無い、
たたく石が三つも用意されており、
茶釜石の上においてあった。小石で茶釜岩をたたいてみると、
確かに中が空洞のような音がする。茶釜を知らない人もいるであろうが、
ボクにはお湯をたたえた茶釜の音に似ているように感じられた。

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(茶釜石)

たて看板には次のようにある。
(この石は、もと中山道丸山坂の上にあったものです。
たまたまここを通りかかった太田蜀山人は、この石をたたいて珍しい音色に、
即座に次のような狂歌を作った。

「御料(五両)では、あんまり高い(位置が高い山の上)
茶釜石 音打(ねうち=値打ち)を聞いて通る旅人」)

そして「夜泣き地蔵」の足元には、夜泣き地蔵の云われの通りだと感じさせる、
赤い毛糸の帽子をかぶった地蔵の頭が置かれていた。

(昔、馬方が積荷のバランスを取るために、道路わきに落ちていた地蔵の首を拾い、
一緒に馬で運び深谷まで行った。
積荷を降ろしたので不必要になった地蔵の首を捨ててしまった。
すると夜な夜なその首が「五料恋しや」と泣くので、深谷の人が五料まで戻して
地蔵の胴の上に乗せたところ泣き止んだ。
それから夜泣き地蔵と言うようになった。)という。

夜泣き地蔵の背景の妙義山が美しい。
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