(松井田町観光案内地図)
(松井田宿)
日本橋を出て18日目。2007年3月26日(晴)気温20℃の予想。
信越線 松井田駅(AM9:30)降り立つ。駅前の広場にタクシーが待っているが、
ボクが乗客の最後と判断するや、利用しそうも無いボクを見て空車のまま発車する。
駅広場の前方に高架になっているような道路へ登る階段がある。
階段脇に松井田町の観光案内地図の看板が立っている。
旧中山道に出るには、階段の上の道路を右に歩くと、下り坂は
右に半円を描いている。その先に信号があるが、
左折せず道なりに真っすぐ歩き碓氷川の橋を渡り、
その次の信号を左折すると、旧中山道松井田町の「下町」の信号に出る。
松井田宿の下町(しもまち)で、京都側から上町、中町、下町になっている。
前回安中から松井田で終わった旧中山道のひとり歩きは、
JR松井田から電車に乗って東京へ帰る予定であったが、
松井田駅が分からなくて、その先の西松井田駅まで行ってしまった。
町で松井田駅までの道順を訊いたが、とても教えにくそうであったのと、
西松井田駅に近かったこともあり、西松井田駅から東京に帰ったが、
この道では、なるほど教えるのも大変なら、
行くにも大変であることが良くわかった。
(上り坂の松井田町)
(妙義山)
旧中山道は、高崎を出ると道路は上り坂になるが、板鼻宿→安中宿→横川宿へと、
登り坂の道路は心なしかすこしづつ勾配がきつくなっていくように感じる。
浮世絵「木曽海道六拾九次之内」(歌川広重・渓斎英泉)にある「板鼻」「案中」「横川」を見ても、
絵は歩くのに難儀そうな登り坂道が描かれている。
旧中山道を西に向かうのであるが、左側に妙義山がくっきり見え、
上り坂の道路の正面には、雪をかぶった浅間山のいただきが覗いている。
(浮世絵 板鼻宿)
(浮世絵 安中宿)
(浮世絵 松井田宿、いずれも蕨宿の歩道上のタイルより)
(下町の信号)
「下町」の信号左角に、「中山道 松井田宿」の標柱が立っている。
旧街道らしく、古いたたずまいの家が目に付く、落ち着いた雰囲気の町である。
歩き出したすぐ左側に崇徳寺の石柱があり、左折すると突き当たりに幼稚園、
すぐ右側の古びた山門をくぐると、境内左側に鐘楼、右側に本堂を持つ立派なお寺である。
鐘楼手前には大地蔵菩薩、百八十八番供養の石造、地蔵尊など石像群がある。
(松井田宿の標柱)
(古い家並みと上り坂)
(崇徳寺)
(崇徳寺の山門)
(鐘楼)
(本堂)
(石造群)
中山道に戻って進むと、「中町」の信号角北側に松井田町の道路元標がある。
その信号の先を北に入ると不動寺がある。
(中町の信号)
(道路元標)
道順が分からず土地の方にお訪ねすると
「不動寺さんはその道を入った所にあります。
道路はすこし曲がっていますので、そこからは見えません。」とのことだ。「
不動寺さん」と敬語を使う言葉が新鮮に聞こえた。
そういえば、最近、葬式とか法事でもない限り、
坊さんに接することも無く、会話の中にお寺のことを話す事も無くった。
考えてみれば、子供の頃に
「お寺さんに行って、何日の法事に来ていただくよう頼んできて欲しい」などと
「お寺さん」と敬語を使った母親の言葉を思い出した。
子供の頃には、お坊さんは供養をされる立派な方として、
敬語を使うのが当たり前であった。
今では幼稚園を経営し、駐車場を管理する利益重視主義の生臭坊主が増えて、
敬語を使うことすら忘れている。
「不動寺」などと呼び捨てにしている浅ましい自分の心を恥じた。
不動寺に到着すると、朱塗りの仁王門が目に付く。
県指定重要文化財の仁王門と自然石の板碑の石塔婆が三基置かれている。
不動寺は寛元元年(1243)創建された古刹である。
(不動寺の仁王門)
(仁王像)
(石塔婆)
説明によれば、
「仁王門は間口6.05m、奥行き3.5mの三間二間の柿葺
単層・切妻造りの門で欄間などは桃山時代の作風を良く残しているが、
江戸初期の改築と推定される。
石塔婆は、参道前西側に三基並んでいる異形の板碑で安山岩の
自然石に板碑様式の仏種子や文字を刻んだものである。
文字は観応三年(1352)円観・見性・敬白などがあり、
北朝の年号が刻んである。」(安中市教育委員会)
桜がちょうど咲き始めたところで、日当たりの良いところには、
陽光の中で花が美しく輝いていた。
中山道に戻る途中に、白壁と黒米に囲まれた連子格子の家が見える。
良く見ると古い感じを出した新しい造りの料理屋のようであった。
(桜咲く鐘楼)
(本堂)
(さくら)
(白壁、黒板塀の家)