(古い建物が続く上り坂)
(八幡宿)
千曲川を中津川橋の歩道橋で渡ると、中山道は長い上り坂になる。
街道筋の民家は古い建物が並んで、人通りは無くさびしい感じがする。
坂を上りきった右手の上のほうにとぼけた顔の大日尊が白い腹巻と白い帽子(?)姿で鎮座している。
回りは田んぼで稲が風でうねっていた。
(おとぼけ顔の大日如来尊)
(周りは田んぼ)
同じ場所に芭蕉の句碑がある。
(涼しさや すくに野松の 枝のなり)とかいてあるらしい。
変体仮名の文字を判読するのは難しい。
帰ってから芭蕉句集を調べたら
「涼しさや 直に野松の 枝の形」があった。
(この日本語のほうが意味が伝わりにくい。)
「直」を(すぐに)と読んで、「形」を(なり)と読ませるほうが、変体仮名を読むより難しい。
結局、芭蕉句集と変体仮名とを見比べて、やっと
(涼しさや すぐに野松の 枝のなり)であることが判明した。
さて、その意味であるが、
普通庭にある松は枝振りなどが、美しく曲げられているが、
(この松は真っ直ぐに伸びた枝が自然でとても良い、それが涼しげである)と読んだのであろう。
そう思うと、なにやら良い句に思えてくるのは不思議だ。
涼しさや すくに野松の 枝のなり (芭蕉)
(チャレンジして変体仮名を読んでみてください)
中山道に戻り進むと、すぐ先の右手に草が伸び放題の、
手入れの無い一里塚跡の碑がある。江戸より44里、176kmである。
一里塚を過ぎると、道は下り坂となり、八幡宿の家並みが一望できる。
町に入るとすぐ右側に、八幡宿の呼び名の基になった八幡神社がある。
(一里塚跡)
(八幡宿の家々が一望できる)
(八幡神社)
石の鳥居といい、門構えといい、神殿といい、大きなケヤキといい、
古い歴史を思わせる神社である。
まず最初に随神門をくぐるが、この門は楼門となっている。
説明では、
(楼門とは、楼造りのことで二階建ての門のことを言う。
一階と二階の境は親柱に擬宝珠をつけた高欄の縁側を巡らせている。
頭貫木鼻(かしらすききばな)の唐獅子、各所に施されている彫刻など江戸時代末の特色を示す。
門の両脇の間には衣冠束帯に剣と弓矢を持った武官神象の随神をおく。
建立は 天保14年(1843)6月、今から150年前。
小諸藩主 牧野遠江守康哉が大願主となり数百本の材木を、
またケヤキ材は川西地方村々の寄進により造営された。
楼門高く懸かっている額は明治時代奉納されたもので、
「戈(ほこ)を止めて武を為す」(右書で止戈為武とある)と横書きされている。)
(隋神門、扁額に右より「止戈為武」と読める)
その奥に重要文化財の八幡神社高良社本殿がある。
「建立は延徳三年(1491)祭神は武内宿禰の神号である
高良玉垂命に由来する。室町時代の遺構を良く残している」と言う。
(高良社本殿)
(八幡神社)
高良社本殿の右横には、八幡神社の本殿と拝殿がある。
本殿の壁三方には美しい木彫りがあり、何か物語の一場面であろうが、
おきな、おうな、そして稚児の笑顔が表情豊かに刻まれている。
(八幡神社の木彫、豊かな表情をご覧ください)
八幡神社を出て中山道を西に進むと、すぐ右手に「中山道八幡宿本陣跡」の石碑があり、
往時のままと思われる本陣の門が建っている。
(八幡宿本陣跡の門)
その向かい側に脇本陣があったと言うが、今は見当たらない。
さらに進むと、上町公会場前の(八幡入り口)のバス停を右斜めにわき道へ入るのが旧中山道である。
道路はやっと車が二台すれ違うことができる広さである。
やがて右側に高さ2mもあろうと思われる馬頭観世音の石碑がある。
道路わきに建つ家は人が住んでいるのか、分からないほどひっそりして、寂れた田舎町の感じがする。
わき道はやがてもとのバス通りに合流するが、
合流すると左にカーブして(八幡西)の信号にぶつかる。
(右わき道に入る。「輪を広げよう」の右側が屋根の付いたバス停)
(馬頭観世音の石碑高さがある)
左右の道路は国道142号線であるが、
この信号で右折し、しばらく田んぼの中の道を歩くと、
やがて(百沢東)の交差点に出る。
交差点手前左側はガソリンスタンドで、車道は逆Y字路になる。
ガソリンスタンドの前で、右斜め前方を見ると、
旧中山道らしい狭い道が見える。
道路はガードレールでさえぎられて、車は入ることができない。
向こう側から車が来れば通行止めになる。
生活道路として、人は通行可能である。
旧街道の両側には人家が並んでいるが、人の気配を感じないくらい寂れている。
そのまま旧中山道を行くと、火の見櫓が見え、その先は広い道路らしく車の通行が見える。
火の見櫓の下、1mほどの土手の上に3基の道祖神の石碑がある。
信濃に多いと言う双体道祖神であるが、
1基は高さ70cm、横幅40cmもあろう大きなもので、この大きさのものは始めて見る。
(火の見櫓の下)
(祝言道祖神)
説明では、
(祝言道祖神は長野県安曇地方で発生した道祖神で、
宮廷貴族の装いをした男女が酒を酌み交わす華麗な祝言像である。
安曇系は主尊が日本神話の神々で、着衣も神々の装束で像造されるのが通例であるが、
この道祖神は宮廷貴族風の精緻な造像である。
発祥地安曇地方にも類例の無い貴重な遺産である。)と望月町教育委員会の説明がある。
もう望月宿に入っている。