中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

牛の鼻欠け坂(木曽路に向って登り坂道の始まり)(旧中山道を歩く 234)

2011年03月21日 11時56分00秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(謡坂の石畳)


(右御殿場)

(御嵩宿 2)
枯葉に覆われた謡坂の石畳を下ると、「右御殿場」の石標があり、
右に入る通路がある。
脇に

・撫し子や 人には見えぬ 笠の内  (子規)

の句碑がある。

また脇にマリア像の矢印もあるのでそちらへ行ってみる。
道路を出たところは、広い道路に面しており、脇に
マリア像が建立されている。
マリア像の裏側に、沢山の小さな五輪の塔が並んでいるが、
説明によると、道路工事中に発掘されたものと言う。
五輪の塔よりもその下にあった石に十字が書かれた石が多数発掘され、
これが十字架を表わし、キリシタン信仰の遺物と思われた。


(子規の歌碑)


(マリア像左の案内)


(マリア像を後から建立した)


(マリア像の後ろにある五輪の塔)


(マリア像の後ろにある五輪の塔2)

しかし、以前隠れキリシタンについて調べたことがあるが、
ハッキリした決め手に欠けることが判っている。
だから、これも隠れキリシタンの証拠となる決め手には、
どうも欠ける臭いがする。
だからかどうか分らないが御嶽町教育委員会が取り上げていない。
ただ観光のための
「隠れキリシタン」だと思っていたほうが話題性に富むので、
話をキリシタンにしたのだと思われる。

その証拠に教育委員会がキリシタンの説明をしていない。
説明をしているのは観光協会である。
(昭和59年三月謡坂地内で、道路工事中に、
たまたまキリシタン信仰の遺物が発掘されました。
その後の調査で 小原、西洞、謡坂地内で、
数多くの貴重な遺物が相次いで発見され、
この地に多くのキリシタン信者がいたことが判明し、
歴史上大きな資料となりました。
幕府の過酷な弾圧の中で発覚もせず、
ある期間信仰が続けられたのは、
奇跡であると思われます。――後略)(御嵩町観光協会)

その他、奈良井宿のマリア地蔵、
全国にあるキリシタン灯篭(織部灯篭)など、
どれもキリスト教の信仰としての確かな証拠はない。
話を隠れキリシタンにすると、確かに納得がいく面もあるが、
その道の専門家によれば、確かな証拠は無く、
すべてこじ付けであるという。


(謡坂石畳の終り)


(小さな橋を左折)

話は戻って、謡坂の石畳は終り、
渓流を越え、小さな橋を越えて広い道路に出る。
旧中山道の案内は、左をさしており左に向って坂を下る。
ぐんぐん坂を下ると右側の岩に張り付くようにして、
「耳神社」がある。

説明によれば、
(全国的に見ても珍しい耳の病気にご利益がある神社です。
平癒の願いをかけ、お供えのキリを一本かりて耳に当てます。
病気が平癒したらその人の歳の数だけキリをお供えしました。
キリは本物でなく竹で作ったものでも良く、――中略――
元治元年(1864)竹田耕雲斎が尊皇攘夷を掲げて率いた水戸天狗党が中山道を通った時、
耳神社の幟を敵の布陣と思い、
刀を抜いて通ったと伝えられています。)(御嵩町 西洞)


(耳神社)

道路はさらに下るが、途中右に入る道があり案内もあるので右折する。
右折してしばらくすると、道はY字路となり右の方向に進む。
「牛の鼻欠け坂」と名づけられた坂に入っていく。
名前どおり歩く牛の鼻が地面に擦れて欠けてしまうほど急な坂道が続く。
江戸側からは少し登り、すぐ下り道になるが、その急なことは、
杖でもないと降りられないほどである。
京都側からは急な上り坂で、
「牛の鼻欠け坂」とは名づけて妙な名前の坂である。

御嵩町の面白おかしい説明によれば、
(「牛坊 牛坊 どこで鼻かいた 西洞(さいと)の坂で かいた」という言葉が残るように、
ここ西洞坂は牛の鼻欠け坂とも呼ばれ、
荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な上り坂でした。――後略)

江戸方面から見れば、坂の降り口に一軒家が建っているが、
京都側から来れば、これから坂の始まりだぞ、
この先木曽路の坂が延々と続くから、
覚悟するようにと教えているように思われるが、
そう感じるのはボクだけであろうか・・・


(案内がある右折場所)


(綺麗なY字路を右側の道へ)


(心細くなるような枯葉の道)


(くだりの急な道)


(さらに下る道)


(坂の終りの一軒家)

その後道路はアスファルトの道路が続く。
広い通りに出たら左折、
しばらく行くと右折案内があるので、そこを右折する。
さらに左折案内にしたがって左へ行き、国道21号線にでる

国道21号線に出たら右折し、
少し行くと右手に石碑があり、
「右・中街道 中仙道大井驛へ達」と書いてあり、
 
「和泉式部廟所」右へ案内矢印がある。

(広い通りを右へ)


(中街道の石碑、後ろに和泉式部廟所の案内が見える)