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(切通 4)の交差点)
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(恵比寿神社)
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(真宗寺)
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(156号線と交差する)
(加納宿)
古い街を歩き、(切通4)の信号を横断し、
「恵比寿神社」、「親鸞聖人御旧蹟 真宗寺」を右に見て、
国道156号線を横断する。
約300mで細畑の一里塚が道路の両側にある。
民家が立て込んでいる中によく残ったものだ。
頂上には榎が植えられている。
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(細畑の一里塚の北塚)
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(一里塚の南塚)
少し歩くと延命地蔵堂があり、その前に道標の石標がある。
よく見ると、
「伊勢 名古屋 ちかみち 笠松 凡一里」とあり、
普通は「左」の文字が入る所を、
石標に「左」を指差す「手」が彫られている。
「西京道 加納宿 凡八丁」
「明治九年一月建之 遠藤平左衛門」とある。
石標は意外に新しい。
「左方向へ」を「左」の文字でなく、
「手で指差す」新しい手法を取り入れたに違いない。
推測するに、作者の遠藤平左衛門さんは、
きっと新しい物が好きな方であったのでろう。
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(追分の延命地蔵)
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(延命地蔵菩薩の脇にある道標)
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(指先で方向を示す道標)
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(明治九年の文字)
ここで「伊勢 名古屋 ちかみち 笠松 凡一里」、
「西京道 加納宿 凡八丁」と
「凡(およそ)」と書いたが、
「凡(およそ)」と書いたが、
どうも「凡」は「兀(こつ)」が正しいのではないか、
これは「まで」を意味する字で、
(笠松まで一里)(加納宿まで八丁)が正しいと言う意見がある。
どうもこれのほうが意味が通じやすいし、
文字そのものも「凡」よりは「兀」の方が解りやすいので、
これは「まで」を意味する字で、
(笠松まで一里)(加納宿まで八丁)が正しいと言う意見がある。
どうもこれのほうが意味が通じやすいし、
文字そのものも「凡」よりは「兀」の方が解りやすいので、
これをとることにする。
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(「凡」よりは「兀」が正しいと思われる。
ここから加納宿に入っていく。
名鉄「茶所駅」の踏切を渡るとすぐ左手に、
関取「鏡岩濱乃助」の碑があり、道標が立っている。
「ぶたれ坊と茶所」と題して、岐阜市教育委員会の案内板によると、
(この、ぶたれ坊と茶所は、
江戸時代の相撲力士「鏡岩濱乃助」にちなむものです。
伝えによると、二代目鏡岩は父の職業を継いで、
力士になりましたが、
土俵の外での行いが悪かったことを改心して寺院を建て、
ぶたれるために等身大の自分の木像を置いて、
罪滅ぼしをしました。
また、茶店を設けて旅人に茶をふるまったそうです。
ここの少し北側にある東西の通りは、
昔の中山道であり、加納宿として栄えていました。
江戸時代には多くの人が訪れたことでしょう。
現在では、歴史的な街並みと地名に当時の様子を伝えていますが、
ここにあった妙壽寺は廃寺になり、
「ぶたれ坊」の像は岐阜駅南口に近い、
加納伏見町の妙泉寺に移されています。)とある。
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(加納宿の碑)
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(鏡岩の碑。右側に鏡岩山、左側に妙壽寺と彫ってある。)
ここにある道標には、(東海道いせ路)、(江戸木曽路)、
(京都 大阪 西国道)とあり、
横面には(天保十一年辛丑十一月 鏡岩濱乃助内建之)とある。
これを見ると、この道標は鏡岩が建てたものではなく、
鏡岩のカミサンが建てたものだ。
茶店を出して旅人に茶を振舞ったというから、
旅人が道をたびたび訊いたのだろう、
あんまり訊かれるものだから、
方向を書き込んだものを建てたに違いない。
カミサンも随分大変だったと見える。
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(道標、鏡岩濱の助内と彫刻されている)
この鏡岩の碑の前で椅子に寄りかかって、
暖かい陽射しの中で、柔らかい寝息を立てながら、
お休みしているお年寄りがいた。
目の前で鏡岩の碑の写真を撮るのに、
頭の上でカメラを構えても目を覚まさなかった。
あまりにも気持ち良さそうな居眠りで、
写真にしたら絵に成るかと、
構えて撮ったが、腕が悪く良い写真にならなかった。
どんなアングルで撮ったら、
よい写真になったのだろうかと、
後になって悩んでいる。
どなたかご教授願えないものでしょうか?
話がそれてしまったが、話を戻すと、
鏡岩の碑から、中山道を少し進むと、
右手に(だんごや)があるので手前を右折する。
これが加納宿の第一の枡形。
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(だんごや)
(日溜りに気持ちよく昼寝のおじさん)
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(「凡」よりは「兀」が正しいと思われる。
ここから加納宿に入っていく。
名鉄「茶所駅」の踏切を渡るとすぐ左手に、
関取「鏡岩濱乃助」の碑があり、道標が立っている。
「ぶたれ坊と茶所」と題して、岐阜市教育委員会の案内板によると、
(この、ぶたれ坊と茶所は、
江戸時代の相撲力士「鏡岩濱乃助」にちなむものです。
伝えによると、二代目鏡岩は父の職業を継いで、
力士になりましたが、
土俵の外での行いが悪かったことを改心して寺院を建て、
ぶたれるために等身大の自分の木像を置いて、
罪滅ぼしをしました。
また、茶店を設けて旅人に茶をふるまったそうです。
ここの少し北側にある東西の通りは、
昔の中山道であり、加納宿として栄えていました。
江戸時代には多くの人が訪れたことでしょう。
現在では、歴史的な街並みと地名に当時の様子を伝えていますが、
ここにあった妙壽寺は廃寺になり、
「ぶたれ坊」の像は岐阜駅南口に近い、
加納伏見町の妙泉寺に移されています。)とある。
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(加納宿の碑)
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(鏡岩の碑。右側に鏡岩山、左側に妙壽寺と彫ってある。)
ここにある道標には、(東海道いせ路)、(江戸木曽路)、
(京都 大阪 西国道)とあり、
横面には(天保十一年辛丑十一月 鏡岩濱乃助内建之)とある。
これを見ると、この道標は鏡岩が建てたものではなく、
鏡岩のカミサンが建てたものだ。
茶店を出して旅人に茶を振舞ったというから、
旅人が道をたびたび訊いたのだろう、
あんまり訊かれるものだから、
方向を書き込んだものを建てたに違いない。
カミサンも随分大変だったと見える。
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(道標、鏡岩濱の助内と彫刻されている)
この鏡岩の碑の前で椅子に寄りかかって、
暖かい陽射しの中で、柔らかい寝息を立てながら、
お休みしているお年寄りがいた。
目の前で鏡岩の碑の写真を撮るのに、
頭の上でカメラを構えても目を覚まさなかった。
あまりにも気持ち良さそうな居眠りで、
写真にしたら絵に成るかと、
構えて撮ったが、腕が悪く良い写真にならなかった。
どんなアングルで撮ったら、
よい写真になったのだろうかと、
後になって悩んでいる。
どなたかご教授願えないものでしょうか?
話がそれてしまったが、話を戻すと、
鏡岩の碑から、中山道を少し進むと、
右手に(だんごや)があるので手前を右折する。
これが加納宿の第一の枡形。
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(だんごや)
(日溜りに気持ちよく昼寝のおじさん)
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