中山道は近江鉄道の踏切を渡るが、
その手前の右側に石材店があり、
「中山道 高宮宿」の大きな案内と常夜灯がある。
ここから高宮宿に入って行く。
踏切を越えて、最初の信号(高宮町大北)があり、
右向こう側に地蔵堂がある。
「木之本分身地蔵尊」通称(大北の地蔵さん)と呼ばれる地蔵尊がある。
(高宮町)の説明によると、
(普通、地蔵様は石造りが一般的であるが、
この地蔵は珍しく木彫りに彩色されたものである。
側には明治三十三年四月の記で、
「木之本分身地蔵菩薩」と書かれた石柱があり、
木之本浄信寺にある眼病のご利益で名高い、
木之本地蔵の分身といわれている。
しかしその由来等についての古文書は
残念ながら不明である。)とある。
つまり言い伝えで、
「木之本分身地蔵尊」ということになっていると言うことだ。
唯一証拠になっているのは石柱だという。
(高宮町大北)信号の右角にある地蔵堂)
(地蔵堂)
(木之本分身地蔵の碑)
高宮宿の家並みは、軒うだつが上がっている家が目に付く。
それなりに功成り、名を挙げた人たちが多かったということになる。
その先右手に「高宮神社」の鳥居が見える。
左手には(旧庄屋 布惣跡)の建物がある。
(宿駅 座・楽庵)の看板が架かっており、
(高宮布 布惣跡)としての説明がある。
(軒卯建のある家々)
(高宮神社の鳥居)
(旧庄屋 布惣跡の建物、左に一つ残る蔵)
(高宮布は、高宮の周辺で産出された麻布のことで、
室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重されていました。
高宮細美とも、近江上布とも呼ばれ、
江戸時代になってからも、高宮は麻布の集散地として栄えました。
「布惣」では、七つの蔵にいっぱい集荷された高宮布が全部出荷され、
それが年に十二回繰り返されなければ平年でない、といわれたと言います。
その七つの蔵の内、現在五つの蔵が残っており、
当時の高宮嶋の看板も現存しています。)とある。
つまり七つの蔵に上布がいっぱい集荷されて出荷される、
この繰り返しが年に十二回繰り返されれば普通で、それ以上繰り返された。
残っている五つの蔵は建物の左横に一つ、あとは建物の裏側に残っている。
(四つ全部は見えないが残っている蔵)
(布屋 惣平の描かれた建物、蔵が五つ見える)
この地方の麻の布は全国的に有名で、
伊藤忠、丸紅の創業者もこの高宮宿の出身である。
(これについては後述する。)
高宮神社に入っていくと、神門の手前右手の小公園内に、
芭蕉句碑がある。
(高宮神社の神門)
(神門右横の笠砂苑、この中にある芭焦句碑)
(芭蕉句碑)
・をりをりに 伊吹を見てや 冬篭り はせお(芭蕉)
この句碑は、神門左手にあったものを右に移したという。
神社を出て、街道を行く。
宿場らしい風情が残っている建物が目につく。
しばらくして左手に高宮郵便局があり、
その先に石の大鳥居とこれまた異様に背の高い常夜灯がある。
多賀大社の(一の鳥居)である。
(宿場らしい風情のまち)
(高宮郵便局)
(鳥居と常夜灯)
高宮町の説明では、
(寛永十二年(1635)の建立されたもの。
柱間は約8メートル、高さ11メートルあり、
県の文化財に指定されている。
――後略。)とある。
また、常夜灯については、
(大鳥居の脇に高さ6メートル、
底辺の一辺3・3メートルの正方形をなす大きな石造りの常夜灯である。
灯明をともす小窓までは、石造りで十三段の階段が付いている。
古くは一対で建立されていた。――後略)
こんな大きな常夜灯を見るのもはじめてである。
(大きな常夜灯、後ろに見える階段は十三段あるそうな)
その手前の右側に石材店があり、
「中山道 高宮宿」の大きな案内と常夜灯がある。
ここから高宮宿に入って行く。
踏切を越えて、最初の信号(高宮町大北)があり、
右向こう側に地蔵堂がある。
「木之本分身地蔵尊」通称(大北の地蔵さん)と呼ばれる地蔵尊がある。
(高宮町)の説明によると、
(普通、地蔵様は石造りが一般的であるが、
この地蔵は珍しく木彫りに彩色されたものである。
側には明治三十三年四月の記で、
「木之本分身地蔵菩薩」と書かれた石柱があり、
木之本浄信寺にある眼病のご利益で名高い、
木之本地蔵の分身といわれている。
しかしその由来等についての古文書は
残念ながら不明である。)とある。
つまり言い伝えで、
「木之本分身地蔵尊」ということになっていると言うことだ。
唯一証拠になっているのは石柱だという。
(高宮町大北)信号の右角にある地蔵堂)
(地蔵堂)
(木之本分身地蔵の碑)
高宮宿の家並みは、軒うだつが上がっている家が目に付く。
それなりに功成り、名を挙げた人たちが多かったということになる。
その先右手に「高宮神社」の鳥居が見える。
左手には(旧庄屋 布惣跡)の建物がある。
(宿駅 座・楽庵)の看板が架かっており、
(高宮布 布惣跡)としての説明がある。
(軒卯建のある家々)
(高宮神社の鳥居)
(旧庄屋 布惣跡の建物、左に一つ残る蔵)
(高宮布は、高宮の周辺で産出された麻布のことで、
室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重されていました。
高宮細美とも、近江上布とも呼ばれ、
江戸時代になってからも、高宮は麻布の集散地として栄えました。
「布惣」では、七つの蔵にいっぱい集荷された高宮布が全部出荷され、
それが年に十二回繰り返されなければ平年でない、といわれたと言います。
その七つの蔵の内、現在五つの蔵が残っており、
当時の高宮嶋の看板も現存しています。)とある。
つまり七つの蔵に上布がいっぱい集荷されて出荷される、
この繰り返しが年に十二回繰り返されれば普通で、それ以上繰り返された。
残っている五つの蔵は建物の左横に一つ、あとは建物の裏側に残っている。
(四つ全部は見えないが残っている蔵)
(布屋 惣平の描かれた建物、蔵が五つ見える)
この地方の麻の布は全国的に有名で、
伊藤忠、丸紅の創業者もこの高宮宿の出身である。
(これについては後述する。)
高宮神社に入っていくと、神門の手前右手の小公園内に、
芭蕉句碑がある。
(高宮神社の神門)
(神門右横の笠砂苑、この中にある芭焦句碑)
(芭蕉句碑)
・をりをりに 伊吹を見てや 冬篭り はせお(芭蕉)
この句碑は、神門左手にあったものを右に移したという。
神社を出て、街道を行く。
宿場らしい風情が残っている建物が目につく。
しばらくして左手に高宮郵便局があり、
その先に石の大鳥居とこれまた異様に背の高い常夜灯がある。
多賀大社の(一の鳥居)である。
(宿場らしい風情のまち)
(高宮郵便局)
(鳥居と常夜灯)
高宮町の説明では、
(寛永十二年(1635)の建立されたもの。
柱間は約8メートル、高さ11メートルあり、
県の文化財に指定されている。
――後略。)とある。
また、常夜灯については、
(大鳥居の脇に高さ6メートル、
底辺の一辺3・3メートルの正方形をなす大きな石造りの常夜灯である。
灯明をともす小窓までは、石造りで十三段の階段が付いている。
古くは一対で建立されていた。――後略)
こんな大きな常夜灯を見るのもはじめてである。
(大きな常夜灯、後ろに見える階段は十三段あるそうな)