「むちんばし」と書いた大きな石碑があり、
その横に立派な地蔵堂がある。
その昔、犬上川の水量は不定で、増水時には仮橋が流されることが多かった。
そこで住民たちから義捐金を集め、橋を架けた。
お上が造った橋でないから、通行料ゼロで「むちんばし」といった。
その昔は船渡しであったであろうから、当然渡し賃が必要であった。
「無賃橋」に対して「賃取橋」というのがある。
中山道の第一の宿場町、板橋宿から蕨宿へ抜ける間に、
荒川がある。
板橋区から埼玉県戸田市へ荒川を渡るとき、
昔は船渡しで、「戸田の渡し」と言った。
(戸田の渡し)
(現在の戸田橋)
渡し賃は、
・平水の時、一人3文・馬8文、
・中水の時、一人6文・馬12文
・出水の時、一人12文、馬18文、
・武家・出家・社人・山伏などは無料であった。
明治8年(1875)になって木製の橋が架けられると、
明治31年(1898)まで通行料として橋銭を徴収しましたので、
賃取橋といわれました。
このときの橋銭は、
・一人5厘、
・馬車2頭立て12銭5厘、1頭立て6銭2厘5毛、
・人力車は車夫を入れて1銭5厘、空車1銭、
・自転車1銭。
と細かく分かれていました。
(広重描く浮世絵「木曽海道六拾九次の内 高宮」)
「木曽海道六拾九次の内 高宮」の説明に、
(――前略――犬上川は、水量が少なく、
普段から、可動式の橋桁を水のある部分に移動させ、
仮の橋板を渡して渡ったという。
本図では殆んど水が無いせいか、
橋桁のみおかれているようだ。
画面左右に大きな松の樹木を置いて、
落ち着いた構図となっている。
画面中央に描かれている二人の女性の背負う背丈よりも高い荷は、
名産の高宮布であろうか。
あるいは麻の外皮を剥いだ後に残る、
オガラと呼ばれる茎であろうか。
当地では、麻の栽培から布にするまでを、
すべて農家の女性の手作業によって行っていた。)とある。
後に出てくるモニュメントの上にある像が担いでいるのは、
この麻布か、麻を剥いた後のオガラであろうか。
話がかなり脱線してしまったが、
中山道に戻ってその無賃橋を渡り終えると、
道路は二股に分かれ二又の間に、
「法士一里塚跡」の石碑が建っている。
建立年が平成23年(2011)になっているから、
まだ真新しい石碑である。この道を右へ進むのが中山道である。
(二又の道路)
(法士(ほうぜ)の一里塚)
{ほうしのいちりづか}と読むと思っていたが、
次の信号に「法士町」の信号があり、
ローマ字で「HOZE-CHO」とあるから、
「ほうぜのいちりづか」と読むのが正しいようである。
土地の名前を読むのは難しい。
(HOZE-CHOのローマ字がある)
無賃橋からおよそ1キロで葛籠町(つづらまち)に入り、
松並木がつづく。松並木の中にケヤキが混じる。
右手に葛籠町自治会が建てた「つづらマップ」がある。
地図によると、中山道沿い右手に「月通寺」がある。
(葛籠町の松並木)
(つづらマップ)
(月通寺の山門)
葛籠町自治会の説明によれば、
(地福寺地蔵堂 月通寺は真言宗豊山派の寺院で、
別名「柏原地蔵」とも呼ばれる。
本堂中央には行基菩薩の彫造と伝えられる地蔵菩薩が安置されている。
山門前に「不許酒肉五辛入門内」と刻まれた石標があるが、
禅宗であった頃の名残を今に伝える。
山門は薬師門と呼ばれる門の一種である。――後略)とある。
(*)筆者注:不許酒肉五辛入門内=酒・肉・五辛など臭いの強いものを、
門内に持ち込むことは許されません、ということ。
ここで言う五辛(ごじん)とは、にんにく・にら・ラッキョウ・ねぎ・ひる(野蒜の異名)を指す。
(産の宮)
中山道は少し先の右手に足利氏降誕の霊地、
その横に立派な地蔵堂がある。
その昔、犬上川の水量は不定で、増水時には仮橋が流されることが多かった。
そこで住民たちから義捐金を集め、橋を架けた。
お上が造った橋でないから、通行料ゼロで「むちんばし」といった。
その昔は船渡しであったであろうから、当然渡し賃が必要であった。
「無賃橋」に対して「賃取橋」というのがある。
中山道の第一の宿場町、板橋宿から蕨宿へ抜ける間に、
荒川がある。
板橋区から埼玉県戸田市へ荒川を渡るとき、
昔は船渡しで、「戸田の渡し」と言った。
(戸田の渡し)
(現在の戸田橋)
渡し賃は、
・平水の時、一人3文・馬8文、
・中水の時、一人6文・馬12文
・出水の時、一人12文、馬18文、
・武家・出家・社人・山伏などは無料であった。
明治8年(1875)になって木製の橋が架けられると、
明治31年(1898)まで通行料として橋銭を徴収しましたので、
賃取橋といわれました。
このときの橋銭は、
・一人5厘、
・馬車2頭立て12銭5厘、1頭立て6銭2厘5毛、
・人力車は車夫を入れて1銭5厘、空車1銭、
・自転車1銭。
と細かく分かれていました。
(広重描く浮世絵「木曽海道六拾九次の内 高宮」)
「木曽海道六拾九次の内 高宮」の説明に、
(――前略――犬上川は、水量が少なく、
普段から、可動式の橋桁を水のある部分に移動させ、
仮の橋板を渡して渡ったという。
本図では殆んど水が無いせいか、
橋桁のみおかれているようだ。
画面左右に大きな松の樹木を置いて、
落ち着いた構図となっている。
画面中央に描かれている二人の女性の背負う背丈よりも高い荷は、
名産の高宮布であろうか。
あるいは麻の外皮を剥いだ後に残る、
オガラと呼ばれる茎であろうか。
当地では、麻の栽培から布にするまでを、
すべて農家の女性の手作業によって行っていた。)とある。
後に出てくるモニュメントの上にある像が担いでいるのは、
この麻布か、麻を剥いた後のオガラであろうか。
話がかなり脱線してしまったが、
中山道に戻ってその無賃橋を渡り終えると、
道路は二股に分かれ二又の間に、
「法士一里塚跡」の石碑が建っている。
建立年が平成23年(2011)になっているから、
まだ真新しい石碑である。この道を右へ進むのが中山道である。
(二又の道路)
(法士(ほうぜ)の一里塚)
{ほうしのいちりづか}と読むと思っていたが、
次の信号に「法士町」の信号があり、
ローマ字で「HOZE-CHO」とあるから、
「ほうぜのいちりづか」と読むのが正しいようである。
土地の名前を読むのは難しい。
(HOZE-CHOのローマ字がある)
無賃橋からおよそ1キロで葛籠町(つづらまち)に入り、
松並木がつづく。松並木の中にケヤキが混じる。
右手に葛籠町自治会が建てた「つづらマップ」がある。
地図によると、中山道沿い右手に「月通寺」がある。
(葛籠町の松並木)
(つづらマップ)
(月通寺の山門)
葛籠町自治会の説明によれば、
(地福寺地蔵堂 月通寺は真言宗豊山派の寺院で、
別名「柏原地蔵」とも呼ばれる。
本堂中央には行基菩薩の彫造と伝えられる地蔵菩薩が安置されている。
山門前に「不許酒肉五辛入門内」と刻まれた石標があるが、
禅宗であった頃の名残を今に伝える。
山門は薬師門と呼ばれる門の一種である。――後略)とある。
(*)筆者注:不許酒肉五辛入門内=酒・肉・五辛など臭いの強いものを、
門内に持ち込むことは許されません、ということ。
ここで言う五辛(ごじん)とは、にんにく・にら・ラッキョウ・ねぎ・ひる(野蒜の異名)を指す。
(産の宮)
中山道は少し先の右手に足利氏降誕の霊地、
若宮八幡神宮「産の宮」がある。
由緒を要約すると、
(南北朝騒乱の文和四年(1355)足利尊氏の子義詮が京都へ帰る時、
同行の妻妾が途中で産気づきここで男子出産。
家臣がこの地に九人残り保護したが、
君子は幼くしてなくなった。
生母は悲しみのあまり、
髪を下ろして醒悟と称して尼となり、
この地に一庵を建て、幼君の後生を弔った。
ここに土着した家臣九人は竹と藤蔓で作った葛籠を生産するようになり、
松寺の北方に一社を祀ってこの宮が出来た。
古来「産の宮」として安産のお参りする人が多い。)とある。
(足利氏降誕の霊地)
先に進むと右手に「了法寺」があり、さらに左に「環相寺」がある。
また、この地には、大きな家がここかしこに点在しているが、
果たして住んでいる人は何人家族なのであろうか?
(了法寺)
(環相寺)
(大きな屋敷)
その先は松並木があり、さらに先には、
「またおいで」とモニュメントが松並木の中にある。
モニュメントの上には、先箱を担いだ着物の裾を端折った商人風の人、
旅姿の女性、麻布であろうか円筒形の長い荷物を担いだ人の像が載っている。
(松並木)
(モニュメント)
(モニュメント2、三人目が担いでいるのは麻布かオガラか)
その先に「中山道 葛籠町」の石碑が建っているが、
ここで葛籠町は終り、
今度は出町に入るのであろう
「中山道 出町」の石碑がある。
(「中山道 葛籠町」の石柱)
(「中山道 出町」の石柱)