(やぐらばしの親柱)
(やぐらばし)
(草津宿 3)
立木神社を出ると「矢倉橋」を渡る。
橋を渡ってしばらくすると、
右手の民家の軒先に寛政10年(1798)の道標がある。
草津市指定文化財の道標である。
「右やばせ道これより廿五丁 大津へ船わたし」と
刻まれている。
(やばせ道の道標)
ここは瀬田の唐橋まで、時間は掛かるが陸路で行くか、
琵琶湖を船で楽して渡り唐橋まで早く行くか、
思案する場所――休憩所になっていて矢倉立場と言った。
矢倉立場について、
なかなか興味ある説明なので、全文を載せたい。
(東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿の南に続く矢倉村。
立場とは、宿場と宿場の間に茶店などが設けられ、
旅人が杖を立てて休んだことから付いた名で、
矢倉村には草津名物の「うばがもち」を売る店があった。
この地にそのうばがもちがあり、
歌川広重の浮世絵や「東海道名所図会」「伊勢参宮名所図会」などに、
旅人が立ち寄って、うばが餅を賞味する光景が描かれている。
また、ここからは対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る
「矢橋の渡し」の渡し場である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。
浮世絵などにも描かれた道標が、今も軒先に建っている。
旅人は、俗謡に
「瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅」と詠まれ、
旅人の多くは、ここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、
旅人の多くは、ここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、
矢橋道を経て、矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した。
そして、この地と矢橋の渡し、瀬田橋は、
よく使われる俚言(世間でよく使われる言葉)で
「急がば回れ」の語源になった所でもある。
・武士のやばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋(「醒睡笑」)
と詠まれ、
近道であっても、湖上が荒れて舟が出なかったり、
風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより、
回り道でも瀬田橋まわりのほうが着実であることから、
成果を急ぐなら、遠回りでも、
着実な方法を取るほうが良いことを指南したのである。)
そして、この地と矢橋の渡し、瀬田橋は、
よく使われる俚言(世間でよく使われる言葉)で
「急がば回れ」の語源になった所でもある。
・武士のやばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋(「醒睡笑」)
と詠まれ、
近道であっても、湖上が荒れて舟が出なかったり、
風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより、
回り道でも瀬田橋まわりのほうが着実であることから、
成果を急ぐなら、遠回りでも、
着実な方法を取るほうが良いことを指南したのである。)
(草津市教育委員会)
ながながと書いたが、「広重の東海道五十三次之内草津」には、
「うばがもちや」が描かれている。
(「東海道五十三次之内 草津」に描かれた「うばがもちや」)
東海道を行くと、右手に草津市立矢倉小学校を見て通る。
すぐ先に大きな信号があるが、これを道に沿って直進すると、
突き当たりになる形で道路は左折する。
突き当りが「上北池公園」と名づけられた小公園で、
その中に「野路の一里塚跡」の碑がある。
往時には、ここに一里塚があったのであろう。
(草津市立矢倉小学校)
(信号を斜め左へ入る.,中央に見えるビルの左へ行く)
(上北池公園、分かり難い場所で大きく一里塚と立看板がある)
(野路の一里塚の碑)
公園の向こう側に出ると、広い道路があり、
東海道はこれを横切って直進であるが、
道路は交通量が多く、混雑して危険であるので、
右手の信号まで行って信号を渡り、
道路の向こう側へ行く。
東海道左手には(ののみち保育園)の建物があり、
{東海道}の案内もあるので見落とさないように進む。
(「ののみち保育園」が左に見て東海道は直進)
旧東海道らしい狭い道を進む。
およそ1kmで国道を横断するが、
この道は交通量が多く横断地下道が作られているのでこれを利用する。
向こう側に出て少しいくと小公園があり、
「野路 萩の玉川」の石碑が建っている。
(国道を地下道で渡る)
(野路 萩の玉川の碑)
石碑の前にはひょうたん型の池があり、水が湧き出ている。
「野路 萩の玉川」としての説明文に、次のようにある。
(「野路」は平安朝から鎌倉時代にかけて、
ながながと書いたが、「広重の東海道五十三次之内草津」には、
「うばがもちや」が描かれている。
(「東海道五十三次之内 草津」に描かれた「うばがもちや」)
東海道を行くと、右手に草津市立矢倉小学校を見て通る。
すぐ先に大きな信号があるが、これを道に沿って直進すると、
突き当たりになる形で道路は左折する。
突き当りが「上北池公園」と名づけられた小公園で、
その中に「野路の一里塚跡」の碑がある。
往時には、ここに一里塚があったのであろう。
(草津市立矢倉小学校)
(信号を斜め左へ入る.,中央に見えるビルの左へ行く)
(上北池公園、分かり難い場所で大きく一里塚と立看板がある)
(野路の一里塚の碑)
公園の向こう側に出ると、広い道路があり、
東海道はこれを横切って直進であるが、
道路は交通量が多く、混雑して危険であるので、
右手の信号まで行って信号を渡り、
道路の向こう側へ行く。
東海道左手には(ののみち保育園)の建物があり、
{東海道}の案内もあるので見落とさないように進む。
(「ののみち保育園」が左に見て東海道は直進)
旧東海道らしい狭い道を進む。
およそ1kmで国道を横断するが、
この道は交通量が多く横断地下道が作られているのでこれを利用する。
向こう側に出て少しいくと小公園があり、
「野路 萩の玉川」の石碑が建っている。
(国道を地下道で渡る)
(野路 萩の玉川の碑)
石碑の前にはひょうたん型の池があり、水が湧き出ている。
「野路 萩の玉川」としての説明文に、次のようにある。
(「野路」は平安朝から鎌倉時代にかけて、
東海道の宿駅として栄えた所である。
源平争乱の時代、ここ野路は数多くの武将の宿陣となり、
時には戦火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。
ここ萩の玉川は多くの歴史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり、
都から公卿、貴族、詩人等、
しばしばこの地を訪ね景勝を愛でて多くの詩歌を読んだ。
中でも千載集(1188)所載の源俊頼(みなもとのとしより)の作
「あすもこん 野路の玉川 萩こえて
色なる浪に 月やどりけり」
は名歌として世に広く知られている。また、十六夜日記(阿仏尼作)には、
「のきしぐれ ふるさと思う そでぬれて
行きさき遠き 野路のしのはら」
と詠んだ。十禅寺川の伏流水が清らかな泉となって湧きいでて、
あたり一面咲き匂う萩とあいまって、
その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、
江戸時代の名所図会にもよく描かれ、いつの頃か歌碑も建てられた。
その後野路宿が草津宿に移り、
次第に玉川もまた寂れる運命となった。――後略。)
源平争乱の時代、ここ野路は数多くの武将の宿陣となり、
時には戦火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。
ここ萩の玉川は多くの歴史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり、
都から公卿、貴族、詩人等、
しばしばこの地を訪ね景勝を愛でて多くの詩歌を読んだ。
中でも千載集(1188)所載の源俊頼(みなもとのとしより)の作
「あすもこん 野路の玉川 萩こえて
色なる浪に 月やどりけり」
は名歌として世に広く知られている。また、十六夜日記(阿仏尼作)には、
「のきしぐれ ふるさと思う そでぬれて
行きさき遠き 野路のしのはら」
と詠んだ。十禅寺川の伏流水が清らかな泉となって湧きいでて、
あたり一面咲き匂う萩とあいまって、
その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、
江戸時代の名所図会にもよく描かれ、いつの頃か歌碑も建てられた。
その後野路宿が草津宿に移り、
次第に玉川もまた寂れる運命となった。――後略。)
(草津市野路町)
今も湧き出ている水と僅かな池がその風情を思わせる、
萩の玉川である。
(萩の玉川)
東海道は右から迂回する形で、右手に大きな池が見え、
池の中に橋が架けられた島がある。
橋の手前に「旧東海道 弁天池」とある。
萩の玉川を含め、このあたり一帯は沼沢地であったに違いない。
この先坂を登ると信号になり、直進か右折か迷っていると、
信号の向こうに木製の常夜灯が見えるので、直進することにする。
(弁天池)
(旧東海道 弁天池)
(どちらへ行こうか迷う交差点)
(信号向こう左に見える常夜灯)
信号を渡って木製の常夜灯を見ると、(東海道 狼川)とあり、
その手前の金網に板の上に手書きで、
(東海道 右 瀬田の唐橋4.9km、左 草津宿本陣3.7km)とある。
これで東海道に間違いの無いことを知る。
この後1kmほどは田舎道を、時計を気にしながら淡々と歩くと、
右手に(ここから大津)と書かれた、木製の常夜灯を発見する。
ここから大津市に入る。
(瀬田の唐橋まで4.9kmの案内)
(「ここから大津」の常夜灯)
今日の宿は、JR瀬田駅近くのホテルを予約してある。
そこまで17:00~18時までにチェックインしなければならない。
ここからまださらに1km強ありそうだ。
気持ちを新たに急ぎ気味で歩く。
まもなく左手に(名勝 月輪寺大池 南約一キロ)の石柱がある。
地図によれば月輪寺まで500mほどに見える。
しかし現地の案内ほど確かなものは無い。
まだ1kmあるとすると、宿泊地まで1.5kmはあることになる。
しばらく歩くと左手に「曹洞宗 普門山 月輪寺 行者堂」の石柱が、
「明治天皇御駐輦之所」、「東海道」の石碑と並んで建っている。
道路を見ると交差点の先左側に大きな池が見える。
池は危険なためか鉄柵で囲まれている。
柵の脇に「東海道立場跡」の碑がある。
(名勝 月輪寺大池南1kmの石碑)
(月輪寺行者堂の碑)
(明治天皇御駐輦之所の碑)
(大きな池)
(東海道立場跡)
天皇が車を停めた場所があるからには、
このあたりは旅人の休憩場所であったに違いない。
先を急ぐ身には、東海道の道案内がここそこにあって頼りになる。
一里塚跡の碑があったら、右折してJR瀬田駅方向へ行く必要がある。
JR瀬田駅に行く唯一の目印である。
田舎道を急ぐと、「いちりやまばし」と書いた橋に出る。
「一里山」というからには、
(萩の玉川)
東海道は右から迂回する形で、右手に大きな池が見え、
池の中に橋が架けられた島がある。
橋の手前に「旧東海道 弁天池」とある。
萩の玉川を含め、このあたり一帯は沼沢地であったに違いない。
この先坂を登ると信号になり、直進か右折か迷っていると、
信号の向こうに木製の常夜灯が見えるので、直進することにする。
(弁天池)
(旧東海道 弁天池)
(どちらへ行こうか迷う交差点)
(信号向こう左に見える常夜灯)
信号を渡って木製の常夜灯を見ると、(東海道 狼川)とあり、
その手前の金網に板の上に手書きで、
(東海道 右 瀬田の唐橋4.9km、左 草津宿本陣3.7km)とある。
これで東海道に間違いの無いことを知る。
この後1kmほどは田舎道を、時計を気にしながら淡々と歩くと、
右手に(ここから大津)と書かれた、木製の常夜灯を発見する。
ここから大津市に入る。
(瀬田の唐橋まで4.9kmの案内)
(「ここから大津」の常夜灯)
今日の宿は、JR瀬田駅近くのホテルを予約してある。
そこまで17:00~18時までにチェックインしなければならない。
ここからまださらに1km強ありそうだ。
気持ちを新たに急ぎ気味で歩く。
まもなく左手に(名勝 月輪寺大池 南約一キロ)の石柱がある。
地図によれば月輪寺まで500mほどに見える。
しかし現地の案内ほど確かなものは無い。
まだ1kmあるとすると、宿泊地まで1.5kmはあることになる。
しばらく歩くと左手に「曹洞宗 普門山 月輪寺 行者堂」の石柱が、
「明治天皇御駐輦之所」、「東海道」の石碑と並んで建っている。
道路を見ると交差点の先左側に大きな池が見える。
池は危険なためか鉄柵で囲まれている。
柵の脇に「東海道立場跡」の碑がある。
(名勝 月輪寺大池南1kmの石碑)
(月輪寺行者堂の碑)
(明治天皇御駐輦之所の碑)
(大きな池)
(東海道立場跡)
天皇が車を停めた場所があるからには、
このあたりは旅人の休憩場所であったに違いない。
先を急ぐ身には、東海道の道案内がここそこにあって頼りになる。
一里塚跡の碑があったら、右折してJR瀬田駅方向へ行く必要がある。
JR瀬田駅に行く唯一の目印である。
田舎道を急ぐと、「いちりやまばし」と書いた橋に出る。
「一里山」というからには、
このあたりに一里塚跡があるに違いないと、
大きな信号のある交叉点に出た。
右折するとJRの駅がありそうな道路である。
しかし、交差点のどこを見ても、
一里塚跡の碑は見えない。
(道路にある「東海道→」の案内)
(一里山橋)
(旧東海道直進の案内がある信号)
諦めて直進すると、右折方向の坂を下った辺りが、
大きな信号のある交叉点に出た。
右折するとJRの駅がありそうな道路である。
しかし、交差点のどこを見ても、
一里塚跡の碑は見えない。
(道路にある「東海道→」の案内)
(一里山橋)
(旧東海道直進の案内がある信号)
諦めて直進すると、右折方向の坂を下った辺りが、
どう見てもJRの駅に近く見える。
道路を渡って、交差点を振り返ると、あった。
「一里塚跡」の碑が今来た道路の左手の塀を背中に建っている。
「JR瀬田駅」への案内もある。
京都側から来ればすぐ見つかるが、江戸側から来たら、
信号を左に折れない限り見えない、そんな場所にあった。
(一里塚跡の碑)
信号を右折して、JR瀬田駅に向かいホテルに入る。
時間17:30分、そろそろ薄暗くなる時間である。
本日の歩行54156歩=約33km。
これは珍しい。
初日は足慣らしで普通25kmほどで、二日目が35kmとなるのに。
道路を渡って、交差点を振り返ると、あった。
「一里塚跡」の碑が今来た道路の左手の塀を背中に建っている。
「JR瀬田駅」への案内もある。
京都側から来ればすぐ見つかるが、江戸側から来たら、
信号を左に折れない限り見えない、そんな場所にあった。
(一里塚跡の碑)
信号を右折して、JR瀬田駅に向かいホテルに入る。
時間17:30分、そろそろ薄暗くなる時間である。
本日の歩行54156歩=約33km。
これは珍しい。
初日は足慣らしで普通25kmほどで、二日目が35kmとなるのに。