(脇本陣 1)
(坂本宿4)
坂本宿の家並みを西に進むと昔ながらの旧家が目に付くので紹介したい。
まず脇本陣の門がある。これが脇本陣永井家である。
この脇本陣では、役人が主に泊まった。皇女和宮下向の際は幕府役人が宿泊した。
その脇本陣家の先、同じ並びに坂本公民館があるが、昔は酒屋で坂本宿脇本陣であった。
この公民館に「くつろぎの郷 坂本宿めぐり」のパンフレットが置いてあるので頂戴しよう。
坂本宿の主だった建物の案内が記されており大いに参考になる。
(脇本陣 2)
(脇本陣 3酒屋で脇本陣であったが今は公民館になっている)
公民館の先に、屋号「かぎや」の昔の宿屋の風情を残す数少ない屋敷がある。
旅の本にも坂本を代表する建物として紹介されている。
説明によれば、
「(かぎや)は坂本宿のおもかげを残す代表的な旅篭建物である。
伝承によれば、およそ370年前、高崎藩納戸役鍵番をしていた
当武井家の先祖が坂本に移住し旅篭を営むに当たり役職にちなんだ
屋号を「かぎや」とつけた。
建物を見て、まず目につくのが家紋の丸に結び雁がねの下に(かぎや)とした屋根看板である。
上方や江戸方に向かう旅人に分かりやすくされている。出梁の下には透かし彫刻が施されている。
間口六間で玄関から入ると裏口まで通じるように土間がある。
奥行きは八畳二間に廊下、中庭を挟んで八畳二間。往還に面して二階建て階下階上とも格子戸である。
宿場は街道の文化の溜まり場である。
坂本宿も俳句、短歌、狂歌など天明寛政のころは最盛期で
当時の鍵屋幸右衛門は紅枝(べにし)と号し、
次の作品を残している。
末枯れや 露は木草の 根にもどる (紅枝)」(松井田町教育委員会)
(旅篭のかぎや)
道路をはさんで向かい側に、白い大きな文字の「いせや」が見える。
「いせや」を中心に両隣の三軒が、道路に面して斜めに家が建っている。
これを(はすかいの家)という。
案内が面白いので紹介しておきたい。
「この辺り一帯の家は、道路に面して斜めに建てられている。
斜角とか斜交(はすかい)と言っている。
(はすかい)に建てられた理由は二つの説があるとされる。
その1.鬼門よけが挙げられる。
鬼門とは鬼の出入りする不吉な方角(うしとら=北東)のことで、
道路に平行に家を建てると(うしとら)の方角に当たるので東向きに家を建てた。
その2.江戸城を守る軍事的な目的。
峠を越えて侵入してくる敵軍に対して(はすかい)に作った三角屋敷に立て籠もり迎え撃つためといわれる。」
いずれの説を採るかは、今後の研究が待たれるが、面白い話が伝えられているので紹介する。
また、
「スエーデンの探検家ノルデンシェルドが、明治12年秋に来日して、
碓氷峠を人力車で越え坂本を訪れた。その時、(動くあごと恐ろしい歯をした怪物の芸を見た)と旅行記にある。
どうも獅子舞らしいが、それが(はすかい)の辺りであったろうか・・・」
(松井田町教育委員会)
(いせや)
(「はすかい」の家)
その先右側に、若山牧水が宿泊した「つたや」がある。
(アプト式鉄道が出来た後の明治41年、坂本宿は寂れてしまったが、
その夏に碓氷峠を越えて牧水がやってきた。ただ一軒残っている
「つたや」に泊まったが、暑くて眠られず酒を求めて、石ころ道を歩きながら、
ふと耳にした糸繰りの音に寂寥感を覚え、思わず口にした歌が残されている。
秋風や碓氷のふもと荒れ寂びし 坂本の宿の糸繰りの音(牧水)」
歌と共に寂れた坂本宿が目に浮かぶ。文化人の往来もあった。
(つたや)
その先に、小林一茶が定宿とした「たかさごや」がある。
先ほどすこし触れたが、寛政・文政年間坂本宿では、俳諧・短歌が隆盛し、
旅篭・商人の旦那衆はもとより、馬子・飯盛り女にいたるまで指折り数えて俳句に熱中したという。
ひとたび一茶が「たかさごや」にわらじを脱いだと聞くや、自作を持ち寄り、
一茶に評を仰いだり、俳諧談義に花を咲かせたという。
(たかさごや)
坂本宿の案内の終りには、必ず俳句や短歌が載せられている理由が解ったような気がする。
文化人が逗留して、文化の波が押し寄せてきた様子が伺える古きよき町である。
当然、読まれる方は面白くないでしょうね。
反省しています。