(碓氷関所の東門跡の碑)
(坂本宿へ)
日本橋を出発して19日目になるが、暦の上では足掛け三年目になる。
東京都は3日を要し、埼玉県は8日間かかり、今日で7日にわたり歩いた群馬県に
別れを告げる日が来た。
昔の表現を借りると、上州路も今日でおわり、信濃路に入ることになる。
天気は晴れ、最高気温20℃の予想。2007年5月29日。
信越線の横川駅の改札を出ると、北に向かって道があり突き当たる。
左手にある「峠の釜飯」で有名な「おぎのや」発祥の地の看板を横目に観て左折する。
この道が旧中山道である。
信越線の横川駅構内に「峠路探訪」、副題(アプトの道マップ)
と題したビラが置いてあるので貰って行く。
このマップには「遊歩道アプトの道とその周辺」を要領よくまとめてあるので、
史跡など観て歩くのに参考になるし、道路地図もわかりやすく描いてある。
(矢の沢川ほとりの石像群)
(馬頭観音の石碑も見える)
旧中山道へ入るとすぐ矢の沢川という透明な水の流れる細いけれど流れの早い小さな川を渡ることになる。
川の手前右奥に数個の石像群(庚申塔、二十三夜塔、馬頭観音)などがある。
川を渡ってすぐ右に茶屋本陣武井氏宅がある。
現在も住居になっているので生活に支障の無いように見学させてもらおう。
(茶屋本陣跡武井氏宅)
(茶屋本陣跡)
説明によると
「茶屋本陣は代々横川村名主を勤め、
幕末のころは坂本駅の助郷をも兼ねた武井家の西の一部である。
棟は居宅と同一であるが、居宅部分は二階があり、
本陣の方は二階を作らず天井を高くした。
――中略――裏庭は「皐月」を配した石組みの平庭で池があり風情があるが、
外敵に備えるものであろうか大きい木は植えていない。
碓氷関所に一番近い茶屋本陣として興味深いものがある。」
(松井田町教育委員会)
この説明によれば、現在残っている建物は居宅部分であるようだ。
茶屋本陣は大名など公用の旅人の休憩場所であり、
碓氷の関所前で身支度を整えた場所でもある。
松井田町の教育委員会の説明にあるとおり、裏庭には皐月の木が植えられており、
訪ねた時はちょうど草刈をした後で手入れされているのが良く解った。
(茶屋本陣裏庭)
(諏訪神社入り口)
(本殿への階段)
(双体道祖神)
旧中山道に戻って西に進むと、北側の奥に諏訪神社が見える。
古い神社らしく、灯篭や双体道祖神は苔むしていた。
さらにその先に碓氷関所跡がある。
手前に東門跡の碑があり、その先階段を昇ったところに往時の関所の門がある。
(碓氷の関所)
説明によれば、
「関所の起こりは、醍醐天皇の昌泰二己未年(899)、坂東に出没する群盗の取締りのため、
交通を監視したのがはじめである。
類聚三大格(るいじゅうさんだいきゃく=筆者注、平安時代に編集された法令集)に
相模国足柄坂、上野国碓氷坂、置関勘過事
とあり、箱根と碓氷に関所を置いたことが記されている。
その後関所は、正応二年(1289)鎌倉幕府の執権北条貞時によって
関長原(安中市松井田町大字関長のことで、碓氷峠山麓を指す)に関所がすえられ、
以来戦国時代まで何度か時の権勢によって整備された。
江戸時代になって、慶長十九年(1614)大阪冬の陣のとき、
井伊兵部小輔直勝が関長原に借番所をつくり関東防衛の拠点とした。
江戸幕府によって、現在地に関所が移されたのは、元和九年(1623)三月である。
横川は碓氷峠山麓の3つの川が合流し、険しい山がせまって狭間となり、関所要害としては最適地だった。
寛永十二年(1635)参勤交代制の確立後は「入り鉄砲に出女」
(筆者注、武器として重要な飛び道具の鉄砲が入ることと、
人質として江戸に預かっている大名の妻が逃げ出すこと)を
きびしく取締り、関所手形を提出させた。
幕末になると、関所の改めもゆるやかになり、明治二年(1869)二月に廃関された。」
(松井田町教育委員会)
説明によれば、
「関所の構えは、中山道を西門(幕府の門で天下の門)と、
東門(安中藩管理)の五十二間二尺(約94.5m)で区切られ関門内とした。
関所は木柵などで四方を取り囲み、その外側は天然の自然林による阻害物にさえぎられ、
忍び寄ることも不可能な御関所要害が、
近御囲・遠御囲と続き、碓氷峠山麓には堂峰番所を置いて通行を監視していた。
関所の前には、正面の軒に安中藩殿様の定紋を染めた
幔幕を中央で結び、上り下りする通行者を取締っていた。」
(松井田教育委員会)
(当時の材料を使用して復元された碓氷関所東門)
(おじぎ石)
復元された門の前に「おじぎ石」が置かれているが、
通行人はこの石に手をついて許可を受けたという平らな「石」が残されている。
「関所の役人は、番頭2人、平番3人、同心5人、門番4人、
改め女2人、中間4人、合計20人で構成されている。
殆んどは定住していた同心が、手形の受付と案内、犯人追捕などの実務についた。
女性を改めるのは、改め女として西門番の妻女が交代で勤めた。
碓氷関所の門限は、明け六つから暮六つまで(=日の出から日の入まで)と定められ、
門限以外は特別な場合を除き、固く門を閉じていた。
関所を破った人は、御定書により磔・獄門の刑に処された。」
以上かぎカッコ内松井田教育委員会による。
女性を裸にして改める役目をしたのは女性だったのはさすが気配りが効いている。
箱根の関所でも感じたが、昔は旅行もままならないものと思った。
碓氷の関所跡を西に出ると、中山道は南に折れて、廃線となった碓氷線のガードをくぐるが、
ガード手前に招魂碑が安置されている。
歩いてみたい道。
茶屋本陣のお家は二階が前にせり出しているのですね? 雪も多い地域で 建物が弱くなったりはしないのでしょうか? ちょっと面白い建物です。
双体道祖神が現れましたね。 これは安曇野では良く見られるのですが 北の方ではあちこちにあるのですね? 仲よさげな道祖神 なんだかほっとします。
茶屋本陣の二階が出梁造りになっているのによく気がつきましたね!さすがお目が高い!