![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/2f/944ab183d206aa536ea9e9da152fec7f.jpg)
(久禮の一里塚跡)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/3b/000f10d2a69d7b2b557cd8a848840a09.jpg)
(番場宿の中へ入っていく)
(番場宿)
久礼の一里塚跡から民家が並ぶ街道を歩くが、
街の中で「問屋場跡」の石碑が他の宿場以上に多く、
民家の前にその石碑は建っている。
郵便ポストのある家の軒先には、
「中山道番場宿」の手書き看板がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/bf/f1bfd987fb7a57d9d2b5fc62907bef24.jpg)
(番場宿問屋跡の一つ目の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/00/811f9d0a21a6b3c58b41888caa58559f.jpg)
(ポストのある家の番場宿の手書き看板)
石塀の前にある二番目の「問屋場跡」の石碑を見て通り過ぎると、
次に「中山道 番場宿」の大きな石碑が右にある。
そこは小公園になっていてベンチも置いてある。
いよいよここから宿場の中に入って行く。
すぐ右に「米原 汽車 汽船道」の石碑がある。
これは「問屋場跡」の石碑が多いのと何か関係がありそうである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/88/87dbf2cefe9d38eefc036b6f6ffa36bf.jpg)
(石塀の前の問屋場)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/fe/b3f2f1e9d659efacd364704cd1354f5f.jpg)
(石塀の前の問屋場跡の二番目の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/88/4ef66b9dc0372f1ddab2e290d7f8cc20.jpg)
(番場宿の大きな石碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/bb/ef6bb2bc021a7cb7ea58aa0c089b1c45.jpg)
(米原道の碑)
続いて「脇本陣跡」の碑が二階家前の花壇の石のうえにあり、
続いて三番目の「問屋場跡」の碑が、瀟洒な二階建ての家の前にある。
四番目の「問屋場跡」の碑は、左手の倉庫らしき建物の横にあり、
その向かい側には、「本陣跡」の碑があり、
その後ろには最近建ったらしい近代的な家がある。
五番目の「問屋場跡」の碑の横には、
「明治天皇番場御小休所」の碑もある。
六番目の「問屋場跡」の碑は、
茶道教室を開いていらっしゃる家の前にある。
いずれも建物に昔の面影は殆んど残ってない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/7d/e3716494b2474e0f34e04939457792d2.jpg)
(脇本陣跡の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/60/2640abc0ff777724921c86519daa04b9.jpg)
(三番目の問屋場跡の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/9d/5bb68f8c43a72c9c46d005ffbdf19b16.jpg)
(倉庫横の問屋場跡の4番目の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/be/ae5905a91992942f1104e33835d63898.jpg)
(本陣跡の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/e3/274b8269bc8d3a5ba1e76844beb5ec6c.jpg)
(五番目の問屋場跡の碑と「明治天皇番場御小休所」の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/52/db4e0ad9691c540ea552d9c31cffd0ef.jpg)
(六番目の問屋場跡の碑)
(古代より東山道の宿駅として町を形成してきた番場宿は、
江戸時代に琵琶湖の水運が発達して、米原に湊が開設されると、
中山道から湊へ通じる道が作られ、積荷の往来が盛んになり、
問屋場が六軒も必要になるほどの繁盛振りを示した。)(米原市)
これで番場宿に問屋場跡が多いということが分かり、
{米原 汽車 汽船道}の石碑も、
米原港への道標であったことが分かる。
少し進むと左手に、「南北朝の古戦場 蓮華寺」・
「瞼の母 番場の忠太郎地蔵尊」と墨書された縦長の大看板がある。
近づくと手前左手に「史跡 蓮華寺」の石塔があり、
高速道路をガードでくぐった奥のほうに山門らしきものが見える。
蓮華寺である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/51/e332701e2e34f46e5500ea43635ad58e.jpg)
(「南北朝の古戦場 蓮華寺」と「瞼の母」番場の忠太郎の看板)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/74/5d9ddb09e65cf4c3bb194d462639b865.jpg)
(史跡 蓮華寺の石塔と奥に見えるか山門)
六番目の「問屋場跡」の碑は、
茶道教室を開いていらっしゃる家の前にある。
いずれも建物に昔の面影は殆んど残ってない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/7d/e3716494b2474e0f34e04939457792d2.jpg)
(脇本陣跡の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/60/2640abc0ff777724921c86519daa04b9.jpg)
(三番目の問屋場跡の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/9d/5bb68f8c43a72c9c46d005ffbdf19b16.jpg)
(倉庫横の問屋場跡の4番目の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/be/ae5905a91992942f1104e33835d63898.jpg)
(本陣跡の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/e3/274b8269bc8d3a5ba1e76844beb5ec6c.jpg)
(五番目の問屋場跡の碑と「明治天皇番場御小休所」の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/52/db4e0ad9691c540ea552d9c31cffd0ef.jpg)
(六番目の問屋場跡の碑)
(古代より東山道の宿駅として町を形成してきた番場宿は、
江戸時代に琵琶湖の水運が発達して、米原に湊が開設されると、
中山道から湊へ通じる道が作られ、積荷の往来が盛んになり、
問屋場が六軒も必要になるほどの繁盛振りを示した。)(米原市)
これで番場宿に問屋場跡が多いということが分かり、
{米原 汽車 汽船道}の石碑も、
米原港への道標であったことが分かる。
少し進むと左手に、「南北朝の古戦場 蓮華寺」・
「瞼の母 番場の忠太郎地蔵尊」と墨書された縦長の大看板がある。
近づくと手前左手に「史跡 蓮華寺」の石塔があり、
高速道路をガードでくぐった奥のほうに山門らしきものが見える。
蓮華寺である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/51/e332701e2e34f46e5500ea43635ad58e.jpg)
(「南北朝の古戦場 蓮華寺」と「瞼の母」番場の忠太郎の看板)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/74/5d9ddb09e65cf4c3bb194d462639b865.jpg)
(史跡 蓮華寺の石塔と奥に見えるか山門)
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