![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/ac/e425eaf4f38d782490bfc6a375ac8831.jpg)
(芭蕉句碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/58/31303c79bfdef910257a043ccef764a4.jpg)
(正月も・・・の芭蕉句碑)
(今須宿 4)
車返しの坂を下ると、石碑が数個建っている場所へ出る。
近づくと芭蕉の句碑と言われるもので、
・正月も 美濃と近江や 閏月 (芭蕉)
また、その隣の石碑には、
「貞享元年十二月 野さらし紀行の芭蕉が郷里越年のため
熱田よりの帰路二十二日ころ、ここ地 今須を過ぎるときの吟」
とある。
さらに、その右横には、
「野ざらし芭蕉道
・歳くれぬ 笠着て草鞋 はきながら はせを」
とある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/1b/e9eedebfe6b30c1caa352be800c66b3b.jpg)
(野ざらし芭蕉道の碑)
少し離れた右手には二基の石碑があり、背の高い方には、
「おくのほそ道 芭蕉道」とあり、
四角い碑には、「おくのほそ道」と題して、
有名な奥の細道の文章の最初が、
「月日は百代の過客にして、・・・とあり、――中略。
・行春や 鳥啼き魚の目に泪
の句が載っており、つづいて草加を旅立つ部分、
ことし元禄二とせにや、・・・・とあり、――中略。
奥の細道各地の紀行文を抜粋しながら述べて、
終わりに大垣入って、親しき門人が集うくだり、
「其の外したしき人々とぶらいて、蘇生のものにあふがごとく、
且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、
長月六日になれば、伊勢の遷宮お(を)がまんと、
又舟にのりて、
・蛤の ふたみに
わかれ 行秋ぞ 芭蕉 」を述べている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/a5/f364e9fb2cdfc4a69f3cfae37f3bba27.jpg)
(「おくのほそ道 芭蕉道」の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/fb/310e39d6f568720db7342eda95dc028d.jpg)
(おくのほそ道、「行春や・・・」と「・・・行秋ぞ」の碑)
奥の細道を締めくくった句を大垣で詠み、
しかも奥の細道の最初の一句
(行春や ・・・)に対して、結びの句が、
(・・・行秋ぞ)で締めくくったのは、
芭蕉は春に対して秋を意識してこうしたのだろうか?
春はこの先の希望を、秋はこれで終わる寂しさを訴えた、
見事な結びの一句ではある。 と思う。
さて芭蕉句碑から百メートルも行かない先の左手に、
「寝物語の里」の碑がある。
一つの小さな溝を挟んで、
手前側は美濃(岐阜県)、向こう側は近江(滋賀県)の国境になっている。
「寝物語の里」伝説は、
この先右側にある「寝物語の里の由来」と彫った説明がある。
これに寄れば、
(昔 文治年間 源義経が、兄頼朝と不和になり、
奥州の藤原秀衝の許へ落ちて行ったので、
その妻静御前もそのあとを追ってここまで来た。
近江側の宿に泊っていると、隣の美濃側の宿で、
大声で話しているのは、義経の家来のようであるので、
寝ながら訊ねると、そうだと答える。
静御前は喜んで、私は主人を慕ってここまで来たが、
家来は皆途中で捕えられて、誠に心細い。
奥州までつれてって欲しい、と頼むと快く承諾してくれた。
これが寝ながらの物語だったので、この名が起こったと言われる。
異説は幾つでもある、とのこと)(米原市)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/ab/4c5765935d6ff10899336686b97ae38b.jpg)
(国境となった溝,左岐阜県、右滋賀県の名札がある。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/de/1735dc3af5e96f534d7feb10e8c60778.jpg)
(寝物語の里の碑と由来を述べた石碑)
広重描く浮世絵(木曽海道六拾九次之内 今須)も
「寝物語の里」を描いている。
解説に寄れば、
(本図は、町の西外れ、近江と美濃の国境の光景。
今須宿の先に位置する長久寺と言う集落である。
一尺五寸ばかりの溝が国境となっており、
これを挟んで西の近江国側に20軒、東の美濃側には5軒あったという。
本図において、手前に描かれる茶屋は近江屋、奥は両国屋と見られる。
近江屋の軒先には、「仙女香坂本氏」とおしろいの宣伝が、
両国屋には、「寝物語由来」と言う看板が見られる。
この国境では、両国の人が、壁越しに寝物語をした所から、
この辺りを「寝物語の里」ともいった。
この小さな溝で、関西と関東とを分けるという説、
あるいは、不破の関を境に西は関の西、つまり関西で、
関の東を関東とする説、
あるいは、逢坂の関を境に分かれるとか、
名主と庄屋の違いは、関東は名主、それ以外は庄屋というから、
関東は群馬県まで名主で、お隣の長野県は庄屋になり関東ではない。
いろいろ説は有るようであるが、
ボクには、はっきりした関西弁が聞かれる京都か大阪に入って、
やっと関西に来たと感じる。
実際にはどこで分けているのだろうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/bf/97cd89483c3c886a21d777fdf1adaf5d.jpg)
(広重の浮世絵)
中山道を進むともうここは近江で滋賀県に入っており、
ここから1kmほど、かえで並木の中山道になっている。
街道は松並木か杉並木が多いが、かえで並木と言うのも珍しい。
かえで並木が終わると、左へ踏み切りを渡り、
中山道は柏原宿に入る。
いよいよ本日をもって美濃路とお別れになり、
近江路に入って行く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/0e/fe8d9b6a32745343ab71c71b3d620913.jpg)
(かえで並木)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/55/d77ef0edcdd8bcb5357242603b593803.jpg)
(かえで並木2)
(*)筆者註:余計なことであるが、(・正月も美濃と近江や閏月)の句は、
芭蕉の句かどうか疑わしいとされています。(芭蕉俳句集 岩波文庫)
念のため追記します。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます