(大泉寺の山門)
(安中宿5)
安中の人たちはすこぶるにこやかで、挨拶はだれかれの隔てなく
きちんとされるし、とても親切である。空気は澄んで綺麗だし、
山の緑、広がる畑、穏やかな土地柄、こんな土地に住んでみたいと思う。
安中駅から東京まで約二時間であるから、どうにか通勤圏に入る。
地価も安いだろうから案外住みやすいのではないだろうか?
さて、旧中山道に戻って西に向かうと、町の中ほど左側に
郵便局があり、駐車場の隅の花壇の中にひっそりと
「安中宿本陣の跡」の標柱が立っている。
旧中山道を挟んで反対側の坂の上に大泉寺の山門が見える。
ここには安中藩初代藩主、井伊直勝の父井伊直政の妻、
つまり直勝の母親のお墓と直勝の側室(二代目藩主直好の母)の墓がある。
(郵便局の本陣跡の標柱)
ここで安中藩について触れておきたい。
「安中の地名は、戦国時代にこの地を治めた安中越後守忠政が、
古来野尻(のじり、野後とも書いた)と呼ばれていたこの地に
永禄二年(1559)に城を築き、野尻を安中に改めたことに始まるといわれている。
安中地域は、越後の上杉、甲斐の武田、小田原の北条という戦国大名の三つ巴の戦いの場となり、
安中氏をはじめとする在地の武士達は、必死で生き残ろうとしますが、
長篠の戦や小田原攻めといった激しい戦いに巻き込まれ滅んでいきます。
戦国最後の覇者となった徳川家康は、井伊直政を西上州に配置し、
碓氷の関所を守らせ江戸防衛の要としました。直政には、二人の男子がありましたが、
家康の命で本領(近江の国 彦根18万石)を次男直孝に譲り、
長男直勝は元和元年(1615)三万石をもって安中に入部し、安中藩初代藩主となります。
江戸防衛の要である碓氷の関所を守る任務を背負った安中藩には、
井伊、水野、堀田、板倉、内藤、板倉の順で歴代徳川譜代の大名が入部しました。
この間16人の藩主が交代しましたが半数の8人が板倉氏で、
江戸中期から明治まで安中藩主を勤めました。」(安中教育委員会)
徳川家康の並々ならぬ力の入れようが分かります。
江戸防衛の要を守備する人は、すべて譜代大名である。
反旗を翻すことは絶対無い大名が選ばれている。しかも、重職ではあるがたった三万石。
それでも家康から認められた重要な役目として勤めたところに、
家康の人の使い方の上手さがあり、見習うべきところがあります。
上に立つものが、自らを裏切らない者たちを部下にして、要所要所に配備する、
現代のサラリーマンの縮図のようでもある。
その初代安中藩主 井伊直勝の母と息子で二代目藩主直好の母の
お墓がある大泉寺に寄ってみる。
(大泉寺の本堂)
(門前にある庚申塔は200年前のもの)
大泉寺の門前にある庚申塔文化十年(1813)とある。
およそ200年前のものだ。
山門をくぐり、右手に墓地が広がる。中央付近にある白い看板を
目指して進むと、二つの立派なお墓がある。
東側には、直勝の生母(直政の妻)のお墓が、戒名は
唐梅院殿台誉崇玉大姉
西側には、直勝の妻で息子直好の母のお墓で、戒名は
隆崇院殿念誉寿専大姉
という。
(唐梅院=直勝の母の墓)
(隆崇院=直勝の妻の墓)
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