(冠稲荷神社)
(倉賀野宿5)
倉賀野神社の左奥に「お稲荷さん」の赤い鳥居が目に付く。
鳥居並びにある石玉垣には倉賀野宿にいた飯盛り女の名が刻まれている。
変体仮名でボクの知識内で読むと
・三國屋内 さね、・玉屋内 かさ、
・丁字屋 きく、・木村屋内 さわ、
・玉屋内 やす、まつ、(別の石に名があり、玉屋には上記「かさ」と三名いたことが分かる)
・新家内 むら、志満、・三浦屋内 つる、たけ、えの(3名)。
などなど・・・。往時、旅篭は32軒と記録にある。
(玉垣)
(玉垣に見える遊女の名 三國屋内 さね)
(玉垣に見える遊女の名 新屋内 むら、志満)
一軒につき二名までと定めた飯盛り女であるが、玉垣を見ると二名以上いた旅篭もあることが分かる。
二名としても64名、三人として96名。
一説によれば彼女らが寄進した金額は合計百両にも上るという。
十両盗むと死罪の時代、一両=4000文、長屋の家賃や大工の
日当が500文。飯盛り女は、一昼夜を五つに区切り、場所や女により異なるが、
一区切り平均50文の時代、寝ないで稼いで250文。
一人一両ずつ寄付したとしても、一両を稼ぐには寝ずに16日間が必要となる。
睡眠も必要なら小遣いも必要であろうから、相当日数必要であったに違いない。
飯盛り女の心意気が感じられる。
もとは倉賀野宿の太鼓橋の近く、冠稲荷にあった玉垣だが、
明治の末に神社合併で御祭神が倉賀野神社に合祀されたため、この境内に移築されてきた。
遠く越後などから奉公に出され、宿場の繁栄を陰で支えた女たち。
彼女たちが厚く信仰した商売繁盛のお稲荷様であった。
(倉賀野宿5)
倉賀野神社の左奥に「お稲荷さん」の赤い鳥居が目に付く。
鳥居並びにある石玉垣には倉賀野宿にいた飯盛り女の名が刻まれている。
変体仮名でボクの知識内で読むと
・三國屋内 さね、・玉屋内 かさ、
・丁字屋 きく、・木村屋内 さわ、
・玉屋内 やす、まつ、(別の石に名があり、玉屋には上記「かさ」と三名いたことが分かる)
・新家内 むら、志満、・三浦屋内 つる、たけ、えの(3名)。
などなど・・・。往時、旅篭は32軒と記録にある。
(玉垣)
(玉垣に見える遊女の名 三國屋内 さね)
(玉垣に見える遊女の名 新屋内 むら、志満)
一軒につき二名までと定めた飯盛り女であるが、玉垣を見ると二名以上いた旅篭もあることが分かる。
二名としても64名、三人として96名。
一説によれば彼女らが寄進した金額は合計百両にも上るという。
十両盗むと死罪の時代、一両=4000文、長屋の家賃や大工の
日当が500文。飯盛り女は、一昼夜を五つに区切り、場所や女により異なるが、
一区切り平均50文の時代、寝ないで稼いで250文。
一人一両ずつ寄付したとしても、一両を稼ぐには寝ずに16日間が必要となる。
睡眠も必要なら小遣いも必要であろうから、相当日数必要であったに違いない。
飯盛り女の心意気が感じられる。
もとは倉賀野宿の太鼓橋の近く、冠稲荷にあった玉垣だが、
明治の末に神社合併で御祭神が倉賀野神社に合祀されたため、この境内に移築されてきた。
遠く越後などから奉公に出され、宿場の繁栄を陰で支えた女たち。
彼女たちが厚く信仰した商売繁盛のお稲荷様であった。
飯盛り女=遊女であることを
書き忘れていました。
そして彼女たちの陰のおかげで宿場が栄えたとは、なんとも悲しい、あわれな気がします。
名前が刻まれて後世に残っているのが、せめてよかったのかどうか・・・・・。