(JR木曽福島駅)
(木曽福島宿 3)
6月1日(晴)気温予想25℃。日本橋をスタートして30日目。
今回は2泊3日で
①木曽福島宿から上松宿まで
②上松宿より野尻宿
③野尻宿より妻籠宿入り口
の予定である。
JR木曽福島にAM10:30に降り立つ。日差しが強く暑い。
駅前の観光協会に顔を出し、木曽福島の観光地図を頂く。
駅前には、食堂やらみやげ物を扱うお店が並んでいるが、
月曜日でもあり閑散としている。
前回時間が無く、見損なった場所を訪問する予定である。
この先上松宿に向かうには、もう一度この駅前を通らなければならない。
木曽の旧街道は、途切れ途切れになっておりたどるのに少し面倒のようである。
一番先に木曽福島駅からどこをむいて出発してよいのか、
チラッと反対側を見ただけでも、解りづらいのが良く判る。
先のことは先のこととして、取り越し苦労をするのは後にして、
まずは、先日立ち寄りそこなった長福寺に向かう。
目の前の旧中山道を宮ノ越宿方向に戻るように進む。
(戻るように道を下る。いたるところに水場がある。)
(長福寺山門)
木曽福島の関所まで歩き、関所前にある関所橋を渡り直進。
突き当りを左折すると長福寺が右側にある。
門前の白壁に、長福寺の略縁起が書かれている。
長福寺縁起によれば、
(臨済宗妙心寺派 龍源山長福寺の草創は遠く、
大宝二年(702)岐岨(きそ)山道が開けた頃、
当郷薬師平附近に創立された古寺と伝えられ後小丸山城下に移り、
富田山長福寺と称していた。
木曽家治世の中、永享二年(1430)十三代源太郎豊方公
先祖追善のためこの地に再興。笠陰禅師を開山となし、
多くの寺領山林を寄進して木曽三刹の一つとされる。
次いで十六代義元公も龍源寺を再興されたが後に長福寺に合併、
爾来龍源山長福寺と改称する。
永正の頃(1504~1521)義元公の伯父、信叔�窩允禅師
京都妙心寺獨秀乾方禅師の法を嗣ぎ当寺に住して妙心寺派を興す。
これより木曽路、諏訪、松本方面に妙心寺派の禅風大いに振う。
戦国の世の天文元年(1573)甲斐の武田信玄公病没す。
時に十九代義昌公は義父追善のため、当寺に墓を建て廟所となす。
また、木曽代官山村公も先祖以来の菩提所なり。――後略。)
(白壁の奥に鐘楼と本堂が見える)
随分勿体つけて長々と書いてあるが、
つまり、武田信玄のお墓があり、関所の代官山村家の菩提寺となっている
由緒あるお寺でございますと書いてある。
お寺の門を出て裏山の墓地に行き、信玄公のお墓と
木曽福島の関所 山村代官のお墓を探したが見当たらず、
あきらめて帰ろうとお寺の裏門の外側を通り過ぎると、
塀の中になにやらお墓らしきものの頭が見える。
つま先立って塀越しに中を覗くと、
木の柱の横に五輪の塔と地蔵尊が、立派な石台のうえに安置されている。
脇にある柱の薄れた法名がどうも信玄公のもと思われるので、
手を伸ばして写真を撮った。
果たして法名は恵林寺殿機山玄公大禅定まで読め、
信玄公のお墓であることが判った。
しかしこのお墓には何が収まっているのであろうか?
子孫が建てたようであり、遺物は何も無いのかもしれない。
(信玄のお墓)
以前岩村田宿を歩いたとき、龍雲寺というお寺に、
信玄公廟所があった記憶がある。信玄は
「死んだ後も死んだことをしばらくは世間に発表するな」と
言い残したため、遺体すらどこに埋葬したかさえ定かではない。
戦国時代は、将が居なくなれば領地が脅かされるから、
死の情報を隠したのであろう。
歌にもあるように、「甲斐の山々・・・」と言うから、
ボクは信玄のお墓は山梨県にあるものと思っていたが、
岩村田宿、木曽福島宿と長野県にあるのは意外であった。
信玄のお墓は、全国に幾つかあるようであるが、
まだボクは他の墓には行ったことが無い。
戦国時代の武将の墓はいくつか複数あるものだ。
各地に散らばった子孫が供養するために建立するのであろうから止むを得ない。
信長が五箇所、近藤勇も五箇所、家康と今川義元は3箇所もあるらしい。
長福寺の庭も枯山水で立派なものであった。
しかし、山村代官のお墓は見つけることが出来なかった。
(枯山水の庭)
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