(木曽の難所、木曽川に沿った約3kの道路)
(柿其橋から三留野宿まで)
2010年5月13日(木)快晴。放射冷却現象で気温が低く13/6℃の予定。
2010年最初の中山道の日。日本橋から通産33日目。
今回は、妻後宿、馬籠宿、できれば足を伸ばして中津川宿までを歩く予定。
外国人にも有名なこの二宿には、
日本の江戸時代の歴史の面影がある古き良き街並み、
加えて、島崎藤村の「夜明け前」の世界が広がる。
(木曽谷の幽玄の世界)
朝4時に起きて、東京駅6:26発の新幹線で名古屋へ。
名古屋駅8:31発中央西線で中津川駅。ここから普通電車に乗り換え、
「十二兼」駅に10:36到着。
「十二兼」駅までの切符を買う時、切符売り場のお姉さんから、
「駅名は何と読むのでしょうか?」と聞かれたので、
次のように答えた。
「十二兼(じゅうにかね)と読み、中央本線西線にある駅です」と。
そのほど知られていない駅である。
もっとも駅舎にはトイレと寒さしのぎの待合室があるだけで、
全くの無人駅である。
「十二兼駅」には、駅設立40周年の記念碑があるが、
♪汽笛いっせい新橋を・・・の歌から言えば、
まだまだ新しい駅なのである。
駅は山肌に沿ってあり、道路から見れば二階の高さにある。
そんな位置に駅はあるので、電車を降り、
プラットホームからお手洗いと待合室の横を通り抜け、
階段を十数段下り立って道路にでる。
これがそのまま旧中山道である。
(階段の上のJR十二兼駅)
「十二兼駅」を出て、中央線に沿って、名古屋方面に戻るように歩き出す。
駅前にお店があるわけでなく、ぽつんぽつんと民家はあるが、
何時から無人になっているのか、玄関や壁伝いに草が伸び放題になっている。
道を下ると左側に石垣があり、その上に竹薮がある。
このあたりに一里塚があったと案内書にあるが、見当たらない。
ただ地蔵様か道祖神か、石造物が二体あり、近隣の方が管理されているのか、
花生けが前に置かれ、生けられた花があったが残念ながら枯れていた。
(竹薮の石垣手前にある石造物)
(道祖神?お地蔵様?)
十五分も歩くと右手の木曽川に架かる柿其橋が見えてくる。
「南寝覚」と地元の方が自慢の景色が目に映る。
川床にある白い大小の石の姿と水の流れが織り成す景色は美しい。
別名河原峡と呼ぶそうである。
(柿其橋)
(南寝覚とも言う美しい木曽川)
橋を右に見て木曽川に沿って進むと、200mほど先右側に小公園があり、
そこに「中川原明治天皇御小休所」と「御膳水」の碑が建っている。
小公園のある場所が南木曽町中川原という地名である。
南木曽町の説明によれば、
「明治天皇は各地を御巡幸されたが、
木曾へは明治十三年(1880)山梨から木曽路に入り、
6月26日は福島泊、翌27日は」寝覚で御小休み、
須原 定勝寺でご昼食、中川原で御小休み、
その日の行在所(あんざいしょ)は三留野本陣であった。
ここ中川原には夕方にお着きになり、
羅天(らてん)の難所を前にして、
桜井太郎宅においてしばしの休憩を取られたという。――後略」
ここで言う「福島泊」とは「木曽福島」を、
「寝覚」とは「寝覚ノ床」を、「須原」は「須原宿」を指している。
(小公園)
(明治天皇御小休所の碑)
(合流した国道19号線、地名は羅天と書かれている)
旧中山道は少し先の信号で国道19号線に合流する。
信号で右折して国道19号線右脇の歩道は、
左側の山肌に中央本線、その下に19号線があり、
その右側は深い木曽川が流れている。
歩道は木曾の桟(かけはし)といわれる長い懸崖の造りになっている。
これが南木曽町の説明にあった「羅天の難所」を指している。
(木曽川にせり出している歩道(桟)
(木曽川に沿って懸けられた羅天橋)
橋はもともと川を跨いでいるが、桟(かけはし)は川に沿って懸かっている。
その歩道のおよそ3kmの桟を「羅天(らてん)の桟」とも言い、
実際には「羅天橋」と名付けられている。
左右を山に囲まれた渓谷は新緑の中、好天に恵まれ、
この上なく美しく感じられた。
百聞は一見にしかずといいますが、
つたない描写力の写真を掲載しますが、
その感激をお伝えすることが出来たでしょうか。
(山にはさまれた木曽川は美しい)
また文章では、この「羅天の難所」を
島崎藤村がその作品「夜明け前」の冒頭に
次のように書いている。
「木曾路はすべて山の中である。
あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、
あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、
あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。
一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、
木曾十一宿はこの街道に添うて、
二十二里余にわたる長い谿谷(けいこく)の間に散在していた。
道路の位置も幾たびか改まったもので、
古道はいつのまにか深い山間(やまあい)に埋(うず)もれた。」と書いている。
ここに記されているように、
当時の木曾十一宿は贄川宿の桜沢から、馬籠宿の先、
現在の十曲峠「落合の石畳」が終わる所までを言ったようである。
現実に戻って、今歩いている道路――
山間(やまあい)を行く国道19号線――は交通量も多いが、
自動車の運転手には単調な道路で眠気を誘うらしく、
僅か3kmの間に居眠り防止装置が付けた信号機が、
目覚まし音を響かせているのが、
昔を想い歩く旅人には無粋に思えた。
(目覚まし音を響かせる信号機)
やがて左手に別れる道路が口を開けているのが見える。
案内に(与川入り口)とあり、
与川村へ通じる道路の入り口である。
木曽川沿いの中山道が水害で通行止めになった時、
迂回路として三留野宿から野尻宿へ峠越えをする道の、
途中にある与川村へ抜ける道路への入り口である。
(与川村入り口)
与川には「木曾八景」の一つ「与川の秋月」が見られるという。
この地で眺める仲秋の名月は、周囲の地形とあいまって、
とても大きく観えると言います。
現在では、「歴史の道中山道(野尻~落合)」として、
与川道は南木曾散策モデルコースに指定されています。
仲秋の名月を見計らって、一度木曾八景の名月を観てみたいものです。
さらに進むと右手に数件の民家がある所に出るが、
そこから約300m先に県道264号線左の案内看板が歩道上にある。
道路の反対側を見ると左脇に登り坂を行く道が見えるが、
これが旧中山道である。
(県道264号の案内と名古屋から104k2の標識、道路の向こう側に脇道が見えこれが旧中山道)
(左脇の路を進むと剣道264号線の標識があり安堵する、左側にJRガードがあるように見えるが、ガードはかなり先にある。)
左脇に行く道路が少し分り難い。
国道19号線のガードレール上に104K2の標識がある所で道路を横断する。
大変交通量が多いので、横断する時は左右に十分注意をしてもらいたい。
左脇の道は登り坂になっており、これを約300mも行くと、
左側を走る中央本線のガードに出るので左折してガードをくぐる。
道は急なのぼり坂になり、すぐ牧ヶ沢川に架かる橋を渡る。
これを進めば三留野宿に入る。
(牧ヶ沢川の橋)
旧中山道を完歩するのに50日、通算9年かかりました。
>馬籠峠から妻籠まで下ってきました。
それでは、男滝、女滝をご覧になりましたね。
妻籠城址はお出でになりましたか?
外国人女性がハイヒールで登って居ましたが・・・・。
木曾のかけはし、旧中仙道の昔の苦労がいかほどだったか、とても感動いたしました。
とても、参考になりました。ありがとうございます。