(新緑が美しい木曽路)
(木曽川縁にあった藤の花)
(三留野宿)
登り坂をさらに登り、中央西線のガードをくぐり牧ヶ沢橋を渡り、
登り坂はなお続く。これをべに坂という。
眺望は素晴らしく、眺めの中で一息つく。
登り坂、もうこれ以上は勘弁して欲しいと思う頃、
両側に古い民家が並び始める。
海道の両側にある民家に「みなとや」「田中屋」など
江戸時代の名を表札脇に掲げて、往時を偲ぶ雰囲気を出そうと、
町の努力の跡が見える。
(三留野宿の街並み)
(みなとや)
(街並み 2)
(脇本陣跡の宮川さんの表札が見える)
やがて左側に脇本陣跡の案内がある家の前に出るが、面影は失われている。
案内によれば、
(三留野宿の脇本陣は宮川家が代々庄屋も兼ね勤め、
本陣家の鮎沢家、問屋の勝野家と共に三留野宿の指導的役割を担った。)
(南木曽町教育委員会)とある。
表札には「宮川」とあるから、代々の子孫の方が住まわれているに違いない。
道路斜め前に本陣跡の石碑があり、石の門柱が二本、
草の生えた空き地に建っている。
その奥に「明治天皇安在所」の石碑とその横にしだれ梅が残っており、
本陣の名残をとどめている。
どうやらこの辺りが三留野宿の中心部のようだ。
(本陣跡、「明治天皇安在所」の石碑とその横にしだれ梅の木が見える)
その先左側に「読書村道路元標」の石碑があり、その横に長い階段があるが、
元は読書村役場の跡である。
「読書村」は「よみかきむら」と読み、
教育熱心な長野県らしい名と思っていたが、
その昔、明治7年(1874)町村合併により出来た名で、
与川(よがわ)村の「よ」、三留野(みどの)村の「み」、柿其(かきそれ)村の「かき」を取って
「よみかきむら」=「読書村」(*)と名づけたとのこと。
(*)現在は昭和36年(1961)吾妻村(あづまむら)、
田立村(ただちむら)と合併し、南木曽町となっている。
(「読書村道路元標」の石碑)
(読書村役場の跡の階段)
旧中山道はその先で桝形になるが、右手にガードレールがあり、
その横にある階段脇に「南木曽駅」と左方を示す小さな案内があるので、
狭い階段を降りていく。
階段下にも、京都側から来た人のための中山道の案内がある。
少し進んだ先の左手に、常夜灯が建っている。
年号が享和3年(1803)のもので、207年も昔に造られたものである。
(京都側の枡形)
(見落としそうな階段、見難いが横に案内板がある)
(拡大するとこの案内板がある)
(その階段)
(享和3年(1803)の常夜灯)
その少し先の左手に「左野尻駅右南木曽駅」の案内があるが、
これが与川道の三留野宿側の入り口に当る。
その先に梨子沢川(なしざわがわ)があり、梨子沢橋が見える。
橋を渡った先のガードレールに「等覚寺左」の案内が見える。
左折して等覚寺へ向う。
(与川道の三留野宿側の入り口の案内)
(梨子沢橋)
(梨子沢川)
(「等覚寺左」の案内は橋を渡り終えてから撮ると等覚寺右に変わる)
柿其の辺り少し奥に入ると見事な渓谷があってこんな深い翠があるのか。。。と感動します。昔の人は先を急いで見ること出来なかったかしら? それとも街道も十分に美しかったでしょうか?
こんな山の中にみなとや 何をする人の家だったのでしょうか?