![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/b2/cb1f6facc097db4754267c84bb7624ab.jpg)
(よしたけあんと円願寺跡の標柱)
(赤坂宿5)
初めに、(∴よし竹 円願寺(*)の白杭のほうに行く。
(*)ここにあった円願寺は焼失したとのこと。
ここには大垣市立青墓小学校による青墓伝説が次のように書かれている。
(牛若丸(のちの義経)が、京の鞍馬山で修業を終え、
金売吉次をお供にし、奥州(今の東北地方)へ落ち延びる時、
円願寺(円興寺の末寺)で休み、亡くなった父や、兄の霊を供養し、
源氏が再び栄えるように祈りました。
その時、江州(今の滋賀県)から杖にしてきたあしの杖を地面に突き刺し、
「さしおくも形見となれや 後の世に 源氏栄えば よし竹となれ」
の歌を詠み、東北へ出立しました。
その願いが仏様に通じたのか、その後、
杖にしてきたよしが、大地から芽をふき根をはりました。
そして見事な枝に竹の葉が茂りましたが、
しかし、根や幹はもとのままのよしでした。
この珍しい竹は、その後もぐんぐん成長し続けました。
それでこの珍しい竹を「よし竹」と呼び、
この寺(円願寺)を「よしたけあん」と呼ぶようになりました。)とある。
この説明版の横に阿弥陀如来像が立っているが、
竹になったよしは生えていなかった。
その左隣に数個の五輪の塔が並んでおり、
ここにも大垣市立青墓小学校の(小笹竹ノ塚)と題して説明板がある。
(青墓にむかし照手姫という遊女あり、この墓なりとぞ
照手姫は東海道藤沢にもだせり、
そのころ両人在りし候や詳(つまび)らかならず。(木曾名所絵図より)
・一夜見し 人の情けにたちかえる
心に残る青墓の里 慈円(後の慈鎮)
(天台宗座主 愚管抄の作者)とある。
どうも分かりにくいが、次のように解釈できる。
(青墓に照手姫という遊女がいたが、この墓がその遊女の墓であるらしい。
同じ時代に、照手姫は東海道の藤沢にもお墓があった。
はっきりしないが、このころ同じ名の照手姫は二人いたのかもしれない。
(木曾名所絵図に記されている。)と。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/eb/97e2ed1f54e08afd7dab05e6dfb1fd91.jpg)
(小笹竹の塚の照手姫の墓)
さて、五輪の塔は形を成したものが、五個も並んでいるが、
どれが照手姫の墓であるかわからない。
一番大きなものがそれとしておこう、昔の話しであるし、
作り話であるかもしれないから・・・
少し戻って、「照手姫水汲井戸」の石柱から左へ折れてみると、
民家を一軒通り越して、麦畑の中の前方に、
それらしき森が見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/30/bf7eb5658de8f9d690d610714d05d868.jpg)
(照手姫水汲井戸跡左の石柱)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/59/d470d982d7764110030932afdd43b6c3.jpg)
(照手姫水汲みの井戸がある所)
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