(昔の分か去れ、郷土資料館の写真から)
(昔の分か去れ、七つの石碑が見える)
(追分宿3)
追分宿の京都側入り口の、枡形の「つかるや」を過ぎると、
「分か去れの道しるべ」がある。
(現在の分か去れ、常夜灯の手前にある道標の石碑)
道標には、{右 従是北国海道 左従是中仙道}とあり、
常夜灯には「是より左伊勢」の字が見える。
その後ろにある子育て地蔵の台石には、
{さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを 追分の宿}
と刻まれている。軽井沢町教育委員会の解説によると、
「右は北国街道姥捨山の「田毎の月」でしられる更科へ、
左は中山道で京都へ、そこから桜の名所奈良吉野山へ向かうという意味である」と記されている。
(常夜塔台石の文字)
(子育て地蔵、子供を抱えている)
森羅亭万象の歌碑には、
「世の中は ありのままにそ 霰(あられ)ふる
かしましとだに 心とめねば」
平賀源内の弟子で、狂歌作者であったらしいが、狂歌の意味が解らない。
どなたかご教示願えれば幸いです。
(森羅亭万象の狂歌碑)
(勢至菩薩と奥にシルエットで見える馬頭観音立像)
(馬頭観音立像)
子育て地蔵の右奥に勢至菩薩があり、一番奥に馬頭観音立像がある。
分か去れには七つの石造があるとされるが、
七つ目は分か去れの石造群の一番手前にある道祖神。
また、子育て地蔵の台石の一番上段には、次のように記されている。
西面には「めうぎに七里、山道九里、はるなに十六里、一ノ宮十里、
三河屋、高崎に十三里、江戸に三十八里、日光に四十四里」。
南面には「小田井に一里、御嶽山に三十三里半、津島に六十七里半、
伊勢に九十二里十一町、京都に九十三里半、大坂に百七里半、金比羅に百五十里半」。
北面には「金沢に八十五里、新潟に六十六里、高田に三十四里、
戸隠山に二十三里、善光寺十八里、小諸三里半」。
(江戸38里、日光44里、三河屋の文字が見える)
(新潟66里、高田34里、戸隠山23里、善光寺18里が見える)
分か去れの道標が示すように、国道18号に沿って左に行くと、
すぐ左中山道の案内標識に出会うので、左脇の道に入る。
道路は旧街道と思われる道幅で、左右はまだ別荘が続く、
林に中を進む。やがて林が切れて両側畑の中をしばらく進むが、
これといってお伝えするような史跡も無い。
やがて人家が増えてきて町が近いと感じるようになると、
右側に「御代田の一里塚は右に入る」の看板が見える。
看板の案内に沿って、北にわき道を少し入ると、一段高いところに「御代田の一里塚」がある。
一里塚は普通榎が植えられているが、ここでは大きな枝垂桜が植えられている。
この一里塚を見て、南に20mほど下ると、
一里塚ではないかと思われるもう一つの小山が見える。
もしそうだとすると、この小山と枝垂桜の一里塚の間に旧中山道があったと思われる。
(御代田の一里塚の枝垂桜)
(もう一つの一里塚)
(南に20mほど下ったところにある塚は、御代田の一里塚であり、
枝垂桜のある一里塚を西塚といい、何も生えていないもう一つの塚を東塚という。)(軽井沢町教育委員会)
「御代田の一里塚」を過ぎてすこし行くと、しなの電鉄の線路にぶつかる。
旧中山道はここで階段を下りて、線路をくぐることになる。
次回中山道を歩くときは、この階段を下りるところから始めよう。
道路は直角に右折しており、右手を見ると、D51の機関車が展示してある。
機関車の先に踏切があり、その先に「御代田」の駅がある。
(D51の蒸気機関車)
旧中山道を歩き始めて20日目の今日はここから、しなの鉄道で
軽井沢にそしてJR軽井沢駅から新幹線で東京に帰る。
本日歩いた軽井沢宿→沓掛宿→追分宿→御代田駅まで、
距離約28km、歩数にして4.8万歩であった。
本日(6/5)の気温 28℃ 快晴で暑かったが
軽井沢では涼しくて、一枚上着を羽織った。