ウィキペディアで「俄」を調べると、次のような説明がある(以下抜粋)。
「俄とは、またの名を茶番(ちゃばん)。俄狂言(にわかきょうげん)の略。遊廓などで、多くは職業的芸人でない素人によって演じられた」
全国に広まった俄だが、「茶番・俄狂言」などと呼んでいるところはない。みな「にわか」だ。
それに、俄は神に奉るという〈神事性〉が根本にあるので遊郭のものではない。
あきらかに東京びいきの人によって書かれた茶番(下手な芝居・行ない)である。
この説明の大元となっているのは、江戸後期に書かれた『新吉原略説』という書物で、俄の発祥は享保19年(1735)の江戸の吉原であるとしている。
そして、この説をもとにまとめられた『演劇百科大事典 全6巻』(1961年 早稲田大学演劇博物館)によって権威づけられ、俄の定義は一人歩きしていく。
天下の『広辞苑』でさえ、この定義に従っている。
しかし、吉原俄について書かれた他の書物には、明和を発祥とする書が多い。そこで最近では、吉原俄は明和4年(1768)前後に始まったとみるべきだとしている。
してみるに、江戸吉原遊郭で「茶番狂言」と呼ばれる素人の寸劇が流行る。そこへ大阪から俄が輸入されてきた。
「俄だって? 江戸っ子が、そんな野暮な大阪野郎の言葉はつかっちゃあいられねえや。茶番狂言と同様に、俄狂言てえことにしちまおう」
そこへ、大阪の庶民の間で俄が大流行していることを聞く。
「なんてこった! 江戸っ子が大阪野郎なんか負けちゃあいられねえや! いっそのこと、俄の発祥を江戸の吉原ってえことにしちまおう。吉原俄てえのはどうだい」
かくして、全国に広まった「俄」は、江戸の「俄狂言」を略したものとなってしまう。
江戸っ子にはかないまへんわ!
享保の末頃(1730年頃)、大阪で俄が発祥し、大阪から京都島原へ輸入され、島原から江戸吉原へ輸入されたのである。
※上の二枚は『東京名所』(国立国会図書館デジタルコレクションより)
※下の図は『大阪名所・四天王寺西門』(大阪市立図書館アーカイブより)
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