明治時代の下水分社(美具久留御魂神社)氏子町関連の年表である。
明治元年(1868) 神仏分離令 廃仏毀釈
明治5年(1872) 富田林尋常小学校(興正寺別院)
明治6年(1873) 新堂尋常小学校・富田林に芝居小屋
明治8年(1875) 喜志尋常小学校開校(明尊寺」
明治22年(1889) 河南橋架設 美原太子線開通
明治22年 町村制の施行=富田林村・新堂村 ・喜志村(単独村制)
明治27年(1894) 日清戦争
明治31年(1898) 河陽鉄道開通 道明寺-富田林、 国道170号線・楠公道路開通・高野鉄道 堺東-長野間開通
明治35年(1902) 河南鉄道 長野線開業
明治37年(1904) 日露戦争
明治39年(1906) 神社合祀 下水分は40年合祀
鉄道と道路の開通は富田林を大きく変えていく。駅前が繁華街になり、新しい道路にそって家が建っていった。
上の地図は『河南鉄道路線案内』(明治三十五年)のもので、下水分社の案内文に「祭礼は例年七月十五日・十月十五日神輿の渡御ありて雑沓する」と書かれている。
「里程案内」には「壺井八幡宮 十五丁 金十二銭」とある。まだまだ人力車の時代だった。
明治39年(1906)神社合祀(じんじゃごうし)が勅令によって進められた。
各集落ごとにある神社を合祀して、一町村一神社を標準とせよというものだ。
このとき下水分社では平村の貴平神社、尺度村の利雁神社が合祀されている。全国でいえば十九万社有った神社が十二万社に統合されている。
神社と氏子を一つにして地方行政を国家神道で一括化しようとした政策だった。
おそらく、この神社合祀以降、氏子意識を高めるために、祭礼で〈にわか〉が奉納されるようになったのではないかというのが多くの古老の意見である。
もし、明治40年から、秋祭りの宮入での奉納にわかが始まったのだとしたら、河内にわかが大きく変わったのはこの時にちがいない。
「歴史36/祭じゃ俄じゃ」で戦後初めて秋祭りで俄を演じた「ミッツォはん」が、「神仏分離」「神社合祀」という言葉をよく口にした。
昭和生まれのミッツォはんが、なぜ神社合祀という言葉を口にするのか不思議だったが、詳しくは聞かなかった。
しかし、ようやく今になって、明治40年の神社合祀から、秋祭りの宮入での俄奉納が始まったことを、徳ちゃんのオッチャンあたりから聞いていたのだと思う。
明治政府は神仏分離で、天皇家の信仰は神道であることを明らかにし、神社を国家の管理下においた。
そして、神社合祀で、神社の氏子区域と行政区画を一致させることで、町村唯一の神社の威厳を高め、地域活動の中心にしたのである。
神社は宗教施設ではなくなり、国家精神を高揚させる施設に変貌していく。
もう一つ、明治時代になって大きく変わったものがある。
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