河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その24後半 江戸――黄門様の風珍征伐

2022年03月18日 | 歴史

 再び馬を借りたご老公一行は、風珍の軍に遭わないように門真から守口へ、そして昼前に枚方の宿の本陣(大名・公家の休憩、宿泊所)に到着した。本陣職を務める庄屋の池尻善兵衛が玄関前にひれ伏してご老公を迎え、

 「これはこれは水戸のご老公様、京都所司代様よりご報告をいただいております。お役目まことにご苦労様にございます。どうぞ奥へ」

 「これこれ、そのようにたいそうにしてもらっては困りますぞ。旅芸人の一座が旅費に難渋したすえに、ここで働いていることにしてくだされ。私はご老公ではなく水戸吉でかまいません。ここにいる格之進は格、助三郎は助と呼び捨てでけっこうでございます。よろしいかな庄屋様?」

 「ハハーッ、わかりましてございます、水戸吉様!」

 「これこれ、それがいかんのじゃ」

 「ハッ、それではご無礼して・・・水戸吉、格、助! 下の用人部屋で、しばらく休んどきなはれ」

 「おお、それでけっこうでございます。夕時には風珍らが到着いたしましょうが、枚方の周りは北に高槻藩、南に郡山藩、西から大坂、東からは京都の兵が囲む手はずになつておりますゆえにご安心くだされ。これらの兵で攻めれば難無きことではございますが、敵味方ともに一切の犠牲は出しとうはございませんので、ご庄屋様も風珍らが来たときは、お見方をいたしますゆえなんなりととお申しくだされと下手に出てくだされ。よろしゅうございますかな、ご庄屋様?」

 「ハハー、かしこまりましてございまする」

 「これこれ、よろしく頼みましたぞ」

 昼を過ぎると疾風のお銀が本陣に到着した。

 「大坂を見てまいりましたが、昼になる前には全員が城を捨てて投降しましたよ」

 「おおそうか。わしのよみ通りじゃの」

 夕方ちかくになるとうっかり八兵衛がやってきて、

 「ご隠居、風珍一味はもうすぐ枚方に着きますぜ」

 「さようか。おそらく風珍と側近はこの本陣に泊り、他の門下生はいくつかの宿屋に分散するであろう。八兵衛すまぬが、夕食がすんだころを見計らい、京の瓦版屋を装い、各宿屋を回ってかくかくしかじかと言いふらしてくだされ」

 「おやすいごようでさ!」

 かくして日の暮れ方となり、風珍一味が枚方の宿に着いた。ご老公の予想した通り、風珍と側近二十人余りは本陣に、他の門下生は各宿屋に分散された。

 夕食がすみ、門下生たちが大部屋でくつろいでいる時、八兵衛がドタドタと大きな音をたて「えらいこっちゃ、えーらいことやがな!」と廊下を走り抜けた。何事かと門下生が障子を開けると、八兵衛が走り戻ってきて、

 「えらいこっちゃ、えーらいことやがな!」

 「おい、そこの町人、何事かあったのか?」と門下生がたずねると、

 「わては京の瓦版屋で、大坂の騒動の取材に行ってましたんやが、大阪城にいた兵は紀州様の一万の兵に囲まれたと知るや、蜘蛛の子を散らしたように逃げてしまはりましたがな。これで一件落着かと思いきや、枚方に戻ってくると周りは淀、高槻、郡山、京都の兵に囲まれて蟻のはい出る隙もおまへん。どうやら皆が寝静まった真夜中に総攻撃をかけるという噂でんがな。ただし、真夜中までに、武器を捨てて京街道を通って落ち延びるのであれば、一切のおとがめはなしということですわ。わたいには関係おまへんねんけど、とばっちりを受けるのはいやでっさかいに、早いとこ宿を出て京に帰りまっさ。ああ、えらいこっちゃ、えーらいこっちゃ!」

 門下生たちにざわめきが起こる。それを見届けた八兵衛は次の宿屋へと走った。

 一方、本陣では、風珍と側近たちが作戦会議を終え、遅い夕食をとろうとしているときで、庄屋の善兵衛が、

 「大坂のお噂はすでに聞きおよんでおります。厳しい年貢の取り立てに苦しんでいる我々といたしましても胸のすく思い。なんなりとお申し付けくださいませ。ささ、水戸吉、格、助、お銀、夕餉のご給仕を」

 一行が出てきて給仕をする。

 お銀が風珍の脇に座り「ささ、まずは一杯」と酒をつごうとすると、

 「いや、思いを遂げるまでは、皆に禁酒を申しつけておるがゆえに・・・」 

と断ったので、お銀が側近の皆に聞こえる声で、

 「さすがは風珍様。天下を治めるに充分なご器量でごいますこと。先ほど、大坂から京へ行く早飛脚が本陣で休んでおりましたので、大坂の様子をたずねましたら、近隣から浪人が次々と大阪城に集まり、明日には五万になろうかという勢い。商人たちも先のことを見込んで、風珍様にご用立てをしたいとの申し込みがひっきりなしということでございました」

 「それはまことか?」

 「まことですとも、この枚方にも多くの浪人が集まっております」

  「それは吉報。私の考えが正しかったということであるのう」

 「もう天下をとったのも同然。前祝いに一杯いかがですか?」とお銀がべったりと風珍に体をあずけると、風珍の花の下が10センチほどのびて、

 「そ、それもそうじゃな。皆の者、そうするとするか!」

 というので酒宴が始まった。ほどよく酔いがまわってきたとき、ご老公が下手に座り、

 「私どもは旅芸人の一座でございます。お祝いにひとついかがでございましょう?」

 「おお、何をするのじゃ?」

 「ハイ、オロシアのコサック踊りというのをご披露させていただきます」

 「おもしろそうではないか。やってみるがよい」

 格さん、助さんが着物の尻をからげ、ハチマキとたすき姿で登場し、お銀の三味線に合わせて、腕組をしてしゃがみながら、交互に片脚を前に蹴り上げて踊り出した。

 やんやの拍手喝采に踊りはますます激しさを増し、格さんの蹴り上げた右足が勢いあまって膳をひっくりかえす。助さんの左足も膳をひっくり返した。大騒ぎになった隙に、ご老公がとびっきりの熱燗を風珍の頭にそそぎかけたものだから、

 「アツ、アツ、アチャアチャ、ぶ、ぶ、ぶ、無礼者めが! 皆の者、こやつらを斬りすてよ!」

 「格さん、助さん、少しこらしめてあげなさい!」というご老公の声に大立ち回りが始まった。斬りかかる男の刀を奪った二人が次々と門下生をなぎ倒す。お銀が三味線のバチで叩きのめす。ご老公もみごとな杖さばきで刀をよける。

 風珍が片辺の鉄砲を取りご老公に狙いを定めたとき、シュルシュルシュルと風車が風珍の腕に刺さった。腕を押さえて逃げまどう風珍を弥吉が逆手小手にしめあげると、ご老公が一声、

 「もうよろしかろう!」

 その声に格さんが、

 「ひかえ、ひかえ。控えよ! この紋どころが眼にはいらぬか!」

 「このお方をどなたと心得る。先の天下の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ。皆の者、頭が高い!」

 これを聞いて、皆が下座にひれ伏した。ご老公が落ち着いた声で、

 「百舌桑風珍およびその側近の者ども、この枚方はすでに二万の兵で取り囲んでおる。おのおの宿に分散した門下生は、自らの行いを恥じて降参し、もはや誰一人としておるまい!」

 ひれ伏した者どもは目を丸くして聞いている。

 「自らの勝手で平和な世の中を転覆せんとはあるまじき所業。ましてや大楠公の兵法を悪事のために利用するとは不届き千万! 死罪といたしたきところ、この光圀の裁断にて、その方たちを我が日の本の領土である択捉、国後、色丹、歯舞群の四島に島流し、遠島を申しつける!! 命を奪いし罪なき人々の菩提を生涯弔うがよろしかろう」

 みごと風珍を征伐したご老公一行は、弥生三月末の桜満開の中を湊川へと向かったのであった。

【補筆】

 春やんの「覚書帖」の中にあった由比正雪の乱(慶安の変)をもとにしました。慶安4年(1651年)4月から7月にかけて起こった事件です。徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の息子・徳川家綱が継ぎます。新しい将軍はまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った正雪は、幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始しました。しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告で計画は事前に露見してしまいます。駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれた正雪は自ら命を絶ち事件は解決しました。このとき、水戸光圀公はまだ23歳だったので、春やんは話にしなかったのでしょう。

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その24前半 江戸――黄門様の風珍征伐

2022年03月16日 | 歴史

 春やんが話してくれたことではないが、春やんが残してくれた覚書帖のメモを参考にして創ったものである。

 スリの正吉と別れた後、ぜひとも古市の番所へおいでくださいませと、古市の番所預かり役の赤井丹波守が言うので、その晩は、丹波守の館に泊めてもらった。酒肴が出て話をしているとき、障子を突き破って風車がシュルシュル、パツーンと床の間の柱に突き刺さった。

 ご老公が目で促すと、助さんが「ハハ」と障子を開けた。外には風車の弥七がひざまづいている。

 「ご老公一大事でございます」

 「どうした、弥七!」

 「大阪城が賊に奪われやした」

 「なに大阪城が! どういうことじゃ?」

 弥吉の話すことには、――堺の百舌(もず)生まれの権太という男が大坂に奉公に出て、軍学者の楠木正辰の塾に入り楠流兵法を学んでいた。やがて才能を見込まれて正辰の娘と結婚。その後、あろうことか、師匠であり義理の父でもある正辰を殺し、家を奪って百舌桑堂という軍学塾を開き、自らも風珍と名を改めた。教え方がうまかったのか、関が原の戦いや大坂の役で職を失った浪人たちの子孫を中心に3,000人もの門下生が集まる。そして今日、その風珍と塾頭数名が「御聖堂の歪みを正すべし」と門下生をあおり、決起して大阪城を襲撃して略奪。女、子どもをみさかいなく斬り倒し、あげくは町に火を放ちましてございますと――。

 「なんとも無謀なふるまい。先の戦で大阪城は外堀を埋められ、そのうえ、昨年の落雷で天守は焼け落ちはだか同然、そのすきを狙ったのであろう。立ち向かうにしても大坂城代、定番、町奉行の与力、同心を集めて300人に満たぬのじゃから無理はなかろう」

 そう言ってご老公、机に向かい筆をとって何通かの手紙をしたためた。

 ご老公、書き終わると皆の者をかっと見据えて、

 「風珍とやらの所業、この光圀はけっしてゆるしませんぞ。とはいえ、事を荒げては風珍ら不逞の輩を増長させるだけ。まずここはこの老いぼれにお任せくださり、一切の手出しはなさらぬようにと、江戸の綱吉様と老中の土屋政直に。次に御三家紀州の徳川綱教殿には、風珍に同調する者が出たときのために、岸和田藩の岡部行隆とともに大阪城を5000の兵で取り囲んでくださるようにと早飛脚を出してくだされ。それと、近辺の郡代、代官には避難民の受け入れに怠りなきようにとの知らせを。この征伐は敵味方ともに誰一人として命を落とすことがないように進めますぞ!」

 「ハハーと、赤井丹波守は家来を集め、手はずを申し付けた。それからご老公、

 「ここは上様に近い譜代の大名で事を収めたいので、弥七にはすまぬが、高槻藩、淀藩、郡山藩、そして京都所司代の松平信興殿にこの書状を朝までに届けてくれぬか」

 弥吉が「へい、かしこまりやした」と姿を消した。

 格さんと助さんが「して、私たちはいかがすれば?」

 「大坂城代土岐頼殷(よりたか)および老中城番は大手町の奉行所にいるであろう、まずはそこで指図をし、その後は枚方まで行くことになりましょう。それまでは体を休めるがよい!」

 かくして次の朝早く、ご老公一行は馬を借りて大手町の大坂奉行所へ馳せた。

ご老公のよみ通りに城代と城番が采配をしていた。夜半に俄雨があり、幸いにも火事は下火になったことを聞き、ほっとしている所へ家臣の者が、

 「申し上げます、風珍一党は兵500を大阪城に残し、2500の兵は京街道を都に向かう様子でございます」

 それを聞いたご老公、

 「やはりそうか。はだか同然の大坂城を捕ったところでどうにもなりますまい。風珍らのねらいは京の都に上り、天皇をかつぎあげて時間を稼ぎ、全国の不満をもつ浪人が決起するのを待つという、大楠公の千早赤坂の合戦をまねたもの・・・。さて、風珍征伐にとりかかりましょうか」

 そう言って、ご老公は机に向かい筆をとった。

 「ご城代、ここに書いてあることを高札に書き、城の周りに立て、瓦版にもして騒ぎ立ててくだされ」

 ――百舌桑堂風珍に付き従う者らに告ぐ。大阪城は紀州、岸和田五千の兵で取り囲みそうろう。攻め込む前に逃げ落ちたき者は、京橋口に人道回廊を設けるが故に、そこを通り、町奉行所に名と風珍に加担せぬことを約束するのであれば、今後一切とがめはせぬ。また、生活困苦の輩は当座の金子を貸し与え、口入(職業斡旋)も致すゆえに即座に郷(さと)に帰られよ――。

 「門下生の半数以上は町人、農民であろうし、浪人らも生活に困ってのためじゃ。これで、おさらく今日中にでも城は空になりましょう。紀州殿には、いずれ和歌山へまいりますと伝えておいてくだされ」

 ハハーと城代は畏まり家来の者に指図をした。

 「風珍らは馬の支度まではしておりますまい。2500の兵が徒歩(かち)で都へ向かうとすれば、今晩の泊りはおそらく枚方でしょう。それでは格さん、助さん、我々は枚方の宿へ先回りいたしますぞ」

  ※後半に to be continued

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月曜日と雨

2022年03月14日 | 菜園日誌

 月曜日の朝起きて雨が降っていると憂鬱になる。休みの日と平日、晴れと雨のギャップが大きいために憂鬱になる。しかし、月曜日は一週間に一回必ずくる。雨もいつかは降る。どうしようもないことなのだが憂鬱になる。「憂鬱」という言葉を使ったが、細かく言えば、自分の嫌な気持ちを天候や曜日のせいにして、現実から目をそらそうとしているだけ。現実に向き合って一歩進めば解消する。

 「憂鬱」の対義語は「爽快」。


 「雨が降ったら畑に入るな」という。ぬかるんだ畑に入って土を踏みつけると、土をこねているようなもので、乾くとかちこちに固まってしまう・・・と思っていたのだが、もっと大きな理由があった。雨が降り続くと、酸素を求めて作物の細根が地表に浮いてくる。それを踏みつけると、足圧で細根がズタズタに傷付き、そこに病原菌が進入し、野菜が病気になる確率が高まるからだ。

 だから、畑仕事ができない。憂鬱。
 今日はのんびりとブログの記事でも書こう。爽快。
 3月1日以来二週間ぶりの雨。抜いた雑草がまた芽を出し始めた。憂鬱。
 雨を待っていたのか、豌豆、空豆が10センチほど成長した。爽快。

 今までも、これからも憂鬱と爽快を繰りかえす。

 まあまあ、今日は花粉が少なくて楽なことよ。爽快。

※版画は瀬川巴水 (国会図書館デジタルより) 

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その二十三 江戸 ―― 水戸黄門漫遊記➁ 

2022年03月13日 | 歴史

 餅つきが終わったあと、火鉢を囲んで、ついたばかりの餅を焼きながら話していると、オトンが、「春やん、今日はおおきに。年末やし、することもないやろ。一杯飲んでいってんか」と言って、一升瓶を持ってきた。

 「さよか、わるいなあ。ほなよばれよ。餅と酒の共食いやなあ」

 そう言って、湯呑につがれた酒をちびちびと飲みながら、「春やん劇場」の第二部がはじまった。

 ――さいぜんの〈さっきの=その二十二〉続きや! 

 おわびに村はずれまでお供しますというんで、スリの正吉を案内に、ご老公一行がやってきたんが宮の美具久留御魂神社や。織田信長の根来攻めで焼かれてしもうて、しばらく社殿はなかったんやが、万治三年(1660)に氏子の寄進で新しい社殿が建てられたとこや。そこをお参りしてから、巡礼街道を北へ、宮を抜けて平(ひら)の村に入ってきた。正吉が「この村にも貴平(きびら)神社と熊野神社がございます」

 「なるほどのう。山あいに開けた土地であるとともに、貴平の貴はおそれおおいというので平としたのであろう。熊野権現をまつるのも、この道が観音巡礼だけではなく、熊野へも通じる道であるからであろうなあ。熊野権現の守り神は八咫烏(やたがらす)、道中無事の道案内の神様じゃ。お参りさせてもらおうか」

 そう言ってここもお参りしたあと、「助さん、角さん、それに正吉、ちょつと休んでいきましょうかい」とご老公、片への茶店におかけになって、

 「おねえさん、お茶をくださいな」

 「はい、いらっしゃいませ」と茶店の娘が茶をくんで持ってきた。

 「あの、皆様方はこれから古市(羽曳野市)をお通りになるのでございましょ」と娘がたずねたのでご老公、

 「さよう、古市を通りますが」

 「それなら、番所を通るのに必要な通行切手をお持ちですか?」

 「いえ、そんなものは持っておりませんが」

 「それならわたしどもで通行切手を売っておりますので、どうでしょうか」

 「ほほう、茶店で通行切手を売りさばくとはどういうわけじゃ?」

 「実は、番所のお役人の馬場様と岡村様が、ちょいちょいとおいでになり、そこにあるゆで卵や焼餅などをお食べになり、この通行切手を売って茶店代にせよと置いていかれるのでございます」

 「なるほど。番所の役目を利用して私腹を肥やしているのであろう」

 「今日は隣村の尺度で番所改めがございますので、小半時もすれば、馬場様と岡村様が来られると思います」

 「古市の番所を預かっているのは、たしか赤井丹波守のはずじゃ。助さん、角さんひとつ懲らしめてやりましょう。正吉、すまぬが先ほどの印籠を持って古市の番所へ行き、こうこうこうじゃと伝えてくれぬか」

 なにやら指図をされた正吉がすっとんで出ていきよった。

 「おねえさん、二人を待っている間、餅をいくつか焼いてくださらぬか」

 そない言うて、餅が焼けるのを待っている――。

 

 そう言って、春やんが火鉢の五徳(鍋などを乗せる台)の上に網を乗せ、つきたての餅を焼きながら、ちびりちびりと湯呑の酒を飲みだした。オトンが膳棚(水屋)から皿を取り出し、醤油を入れて持ってきた。

 ――小半時ほどした時、茶店のねえさんが言うたとおり二人がやってきた。

 「馬場殿、餅のええ匂いがしますなあ。我々も餅にしまひょか」

 「そよなあ、まずは餅を焼いてもらお」と言って、餅を注文する。その時、ご老公主従を見つけ、「そこのくそ爺い・・・」となんやかんやと職務質問をしてくる。しかし、正吉に言った手はずがまだととのってないんで、ここからはご老公の時間稼ぎや。

 「私どもは旅芸人でございます。酒の肴にひとつお見せいたしましょうか?」

 「もし岡村氏、おもしろそうじゃなあ。ほなら、おっ爺ゃん、やってみよ」

 「はい、では」と言って、ご老公、皿の上の餅を二つ持ち、放り投げてお手玉のように空中でくるくると交差させた。それが三つになり四つになり数が増えていった。さすがは天下の副将軍や。ええか、こないしてるねん――。

 そう言って春やん、コジュウタ(餅箱)から餅を取り出して実演しだした。二つが三つ、三つが四つになり、五つ目を取ろうとした時、まちがって網の上の焼いている餅を取ったものだから、

 「あつ、あちゃ、あちゃちゃちゃちゃ!」

 そのひょうしに湯呑を倒し、酒が火鉢の炭にかかって湯気やら灰がもうもうと舞い上がった。

 「ご老公も失敗するときはあるわい。黄門も筆のあやまりいうやっちゃ!」

 げげ、こんなとっから話の続きをするんかいな。

 ――申し訳ないと茶店の隅で小さくなっているご老公。その時や、はるか街道から栗毛の馬にムチ撃って、パパパパパッとやってきたんが、古市の番所預かり役の赤井丹波守や。馬場、岡村の両名を見つけ、

 「日頃の役目大儀である。して、二人の家臣を連れたご老公を見はしなかったか?」

 このとき、隅で小さくなっていたご老公が、

 「おお、丹波守、久しぶりじゃのう」

 これ見て赤井丹波守、あわてて馬から下り、地面にひれ伏し、

 「ハハァー、ご老公様におかれましてはご健勝でなによりでございまする」

 「ああそうじゃ、今、この二人にわしの芸を見せておった所じゃ。おぬしも見ていくがよい」

 「めっそうもございませぬ。馬場、岡村の両名、天下の副将軍の水戸光圀公に芸をさせるとは不届き千番。どういうわけじゃ?」

 赤井丹波守がたずねたので、ご老公は通行切手の一件をすべて話してしもた。赤井丹波守はえらい怒って、

 「悪事を働く者を取り締まるためと言っておったが、このような下心があったのか。皆の者、この両人に縄をうて!」

 これを聞いてご老公、穏やかにそれをお止めになって、

 「ああ、いや待て丹波守、縄をかけてとがめることもなかろう。それでは預かり役のお主にも沙汰が下されるではないか。そのかわり茶店に置いていった通行切手を引き取り、その分の代金を両名に払わせるがよかろう。寛大な処置をしてこそ世の中は治まるのですよ。アッ、ハハハハハッ」――

 笑いながら春やん、帰っていきよった。どこが寛大やねん! 飛び散った灰やら餅やら、誰が掃除するねん? 

【補筆】

 黄門様の行動範囲は、水戸藩内以外では江戸藩邸と日光東照宮参詣程度でしかなく、しかも公務で、私的な旅行は鎌倉だけだったのはよく知られています。

※平町にあった貴平神社と熊野神社は明治になってから美具久留御魂神社に合祀されています。

※巡礼街道は、西国三十三所観音霊場巡礼に使った街道で、第五番札所の葛井寺から野中寺へ、ここから羽曳野丘陵沿いに平町、美具久留御魂神社、富田林寺内町を通って、第四番札所の槇尾山施福寺にいたる街道です。

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ちょっといっぷく14

2022年03月12日 | よもやま話

Commont allez-vous?(コモン タレヴー=お元気ですか)
Attends! (アッタン=ちょっと待って!)
ah bon?(ア ボン?=えー本当に?)
à tout à l'heure !(アトゥータアラーハ=えっ、本当!)
Je t'aime de tout mon coeur(ジュテーム ドゥトゥー モンクール=心から君を愛している)

Ondrya nanisite kettkannen.
Tyoi matutareya.
Andara hayo konkai.
Mo akan harahetanjya
Jakawasi monkutarenna.

河内弁はフランス語に近い。

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