昨日のことだ。2023年5月15日。沖縄が日本に返還された日から51年目。私は返還=(日本国家への)再「併合」だと考える。「基地の島」の歴史を押しつけ続け、日本の「領土・領海」の軍事的拠点を拡大してきたのが、この10年余りの日本の現実。その問題については、別途考えたい。昨日は久しぶりの再会シーンがあった。
この男は、嫌みばかり言う奴で、付き合いにくいのだが、シュワブゲート前で、昨日会った。アバウト3年ぶりか。心配していたとか言っていたが、昨日はマジ顔だった。実は私も、気にしていた。普段、私は辺野古にいるわけでないし、会えなくても偶々だろうと。お互い無事だったのだから、良かった。彼とは1980年代からの仲間だった。
で、ゲート前での抗議の座り込みが始まり、暫く経った。県外の写真部記者がバチバチ撮っていた。どんどん撮ってね。一瞬の隙をぬって、彼女が聞いてきた。「いつ頃、(トラックは)入ってくるんですか?」。私は答える。「いつもより遅れているね」。防衛局側の手順を教えた。この動きがあれば次はこうだと。撮る側は、それが分かっておれば苦労しないのだ。そこを読むのがプロの技。
しかし、少しでも名(確たる)場面を撮っていただきたい。聞かれたら、分かることは教えます(但しタイミングによって。無理なときあるから、その際は、ごめんなさい)。
また撮影中の時、私に話しかけてきた人がいた。「先ほどバス停でおまちでしたでしょう」と。「そうかなと思いながら、通過しました」と言う。気にしていただけるだけでありがたい。その後、情報交換させていただいた。話しをすれば、共通の友が居ることが分かった。全国に仲間を作りたい。
話は前後する。沖縄高等専門学校入り口から、ゲート前テントに向かう途中で、「三多摩平和運動センター」の旗を見た。誰か知り合いは居ないかと見ていた。「ヤマモトさーん」と声がかかった。いたー! 彼は「すぐ分かりました」と言っていた。お互いに元気でいることはなによりだ。負けてはいられない。三多摩でもピーフォスの問題やら、オスプレイの問題など、共通の課題が起きている。米日地位協定が上位を占めるこの国を変えていくことなしに、何も変るまい。
ひとりでランチにした。そこのお店で色々意見交換。お客さんひとり来ていて、私たちのことを聞いていた。突然賛意を表明されて、驚きつつ、意見交換。意外な「合意」・共感に複雑なものを感じた。思い込みを廃し、一歩一歩考え、友を作りながら前に進む。彼女はちゃんと私のことを覚えてくれていた。「辺野古テント村」がなくなっても(浜テントはある)、この道を続け、ひろげていこう。
嬉しいことは待っていてもやってこない。自分が動きださなければ、何も始まらない。そう考える私が今ここに居る。