ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け35年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

「5月15日」を巡って、私が考えていることー第1回 1972年5月15日前後のこと

2021年05月16日 | 歴史から学ぶこと

 私が沖縄を訪れたのは1989年5月が最初だった。このとき私は37歳(誕生日前)。私は1951年生まれだから、1972年の「沖縄の日本復帰」のことを知っている(?)。1972年5月15日の「安保粉砕!沖縄返還協定粉砕!ベトナム反戦!」(当時のスローガンはこうだったか、正確さを欠く)のベトナムに平和を!市民連合のデモに私は参加していた。しかしこの日から17年間もの間、沖縄と正面から向き会わずに生きてきた。
 ここ数年、それは何故だろうと考えてきた。自分でも分からない。今も明解な答えはでていない。しかし私はこの原点的自己理解を放棄する訳にいかないと、考えている。今回、隙間な時間も駆使して考え直してみた。

Ⅰ:70年6月から71年11月を経て
①1970年6月23日は70年反安保の最大の、大規模なデモとしては最後の闘いだった。ベトナム反戦と安保粉砕が叫ばれていた。だが、沖縄をどう主張していたのだろうか、私は確かな記憶がない。71年11月の闘いは、沖縄返還協定を巡る最大規模の闘いだったから、明確に沖縄を主題にしていたはずだ。
 しかし私は勉強不足で、当時の各派のスローガンの混戦を整理できていなかった。というよりも沖縄を巡る実態分析ができていなかった。穴があったら入りたいレベル。

②何故だろう。ひとつは当時の沖縄は「異国」。米国の施政権下にあり、パスポートがなければ往き来できなかった。情報管理も厳しく、米国に不都合なことは禁圧されていた。1969年以降は、本格的に「返還/復帰」が米日政府間で議論されるようになり、益々機密度が強化されていた。

③私はそれだけだとは思えない。沖縄の政治潮流間の対立(復帰協と人民党)を「日本」側が増幅してご都合主義的にやりあっていたのではないか。また、「雑音か」と正面から分け入って検証する努力が足りなかった。新左翼系の四分五裂(自党派本流意識)はこれに輪をかけていたのではなかったか。
 今だから言うが、新左翼も腐っていた。私はここ数年来、そう断じている。

④だが最大の欠陥は、多分こうだろう。日本側から見た場合、連合国に破れた日本国は、米国に頭を垂れた。天皇制を残しつつ、戦後処理が始まったことに、大いに安堵した。この核心部に米国による沖縄の占領があり、アジアの米国側の軍事基地としての機能が求められ、オー!イエッサー!としたことが元凶であり、歴史的構造的な分析を殆ど行わないという「日本」側の知的怠慢。帝国主義論争をやる前に現実を観てこなかったのだ。
 きっと「日本」側の革新・左翼勢力は、こうした分析を不得手だったのだろう。天皇問題を回避した沖縄問題はありえぬから、「忘れられた島」のままに置いておきたかったのか? 罪深いことだ。「日本」にまともなインテリゲンチュアがいるならば、こうした分析もやるべきだ。同じ過ちを繰返さないために。日本国憲法を巡る論争で言えば、第1章「天皇」と、第2章「戦争の放棄」(第9条)の関わりの検証抜きに沖縄を問うことは不可能だろう。

Ⅱ:72年5月を前に
 
①当時の米国はベトナム戦争で劣勢下にあった。引き際を考えざるをえなくなっていた。米国がベトナムでやったことは、核攻撃を除けばなんでもありをやった。最大の恥辱がジェノサイドだ。皆殺し戦争。ナパーム弾で森を焼きつくし、枯れ葉剤で森や水田を生命系の芯から殺した。絶対にあってはならない戦争だった(あっても良い戦争はあるのか?)。

②この最大の軍事拠点が沖縄だった。だから沖縄を日本の統治下に据え直すためには核兵器も毒ガスも撤去した。証拠隠滅。枯れ葉剤も処分。戦況的に当分使えないモノを置いておくよりも、下げて済ました方が得だった。

③私たち「日本人」は、71年から進んだ沖縄返還のための事前処理を注目していたか? ぼんくらだったのではないのか。ベトナムの戦況を見る程度に沖縄のことも見ていれば、もうちょっと真実に迫れたと思う。

④72年2月3月の連合赤軍事件に注目が集まった
 72年2月に連合赤軍がしかけた浅間山荘事件は、銃撃戦となり、暴力闘争の極限に走った。彼らは国家権力に潰滅に追い込まれた。それも同士殺しがあちこちで発覚し、死骸が発掘されるなど惨憺たるモノだった。
 こうした世論誘導は、沖縄にも影を落とした。沖縄の人々の責任ではないにもかかわらず、沖縄の闘いも押しつぶされた。
 私自身の視線も、沖縄に真正面に向き合うことはなかったようだ。

Ⅲ:政治と文化

①フィンガー5と南沙織
 昨日の琉球新報にでていたのだが、「沖縄育ちのソウル席捲―フィンガー5 元祖オキナワン音楽グループ」だと。たしかに「リンリンリリーン、リンリンリリンリン」を私もしっかり覚えている。しかし当時の私は彼らがパスポートをもってきているなどと、考えても居なかった。
 1971年流行った歌に私は忘れがたいモノがある。「横浜、たそがれ」(五木ひろし)、「また会う日まで」(尾崎紀世彦)、「分かれの朝」(ペドロ&カプリシャス)、「出発の歌」(上条恒彦と六文銭)、「あの素晴らしい愛をもういちど」(加藤和彦と北山修)など。そこに南沙織の「17歳」が踊っていた。
 1972年は「ひとりじゃないの」(天地真理)、「瀬戸の花嫁」(小柳ルミ子)「どうにもとまらない」(山本リンダ)、「赤色エレジー」(あがた森魚)、「そして神戸」(内山田洋とクールファイブ)など。この年、フィンガー5はこう改名して、ヒットを飛ばしていく。
 商業主義の歌謡界も何が売れるかに敏感だ。沖縄復帰に合わせて沖縄の歌手を売り込める。フィンガー5も南沙織も旋風を巻き起こし、大いに売れた。

②政治と文化
 どうにも懺悔の値打ちもない話ばかりで恐縮だが、沖縄の帰趨が日本の帰趨が係わっているときに、一方で私たちは、無邪気に南沙織やフィンガー5に興奮していたようだ。当時の私の認識では政治と文化は別ジャンルで、相互に浸透していると思っていなかったのだ。誠にお粗末。
 「沖縄、可愛い」、「沖縄かっこいい」で、沖縄と「日本」を巡る問題を観る私たちの目を曇らせていなかっただろうか。

(続く)
 



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