本日は2024年5月4日(土)晴れ
昨日は憲法記念日であり、明日はこどもの日。その間の土曜日だ。私にとっては、明日5日は、私が沖縄にき始めた最初の日だ。1989年5月5日。あれから35周年を迎える。偶然が重なり、必然になり、また偶然になる。個人の記憶はともかく、この35年間、沖縄はどう変わってきたのだろうか? 変わっていないのだろうか? ヤマトは変わっていないようだ。
スタンディング・アーミーと言われるように、いつでも戦争を可能とする態勢が着々と整えられつつある。市民の意識も再び、このどうしようもない袋小路に嵌まっていくのだろうか。
2014年の集団的自衛権の部分的合憲化(解釈改憲)が一点突破したように、もはや、この流れは止らないのかも知れない。しかし今のこの時代に戦争に舵を切ることは明らかに馬鹿げている。極々一部の人間たちの利得に身を預けることは、確実に私達が破滅を迎える。こうしたことを歴史から学ばない人がいるとすれば、明らかに阿呆。怠惰すぎる。生産力の多数を軍事に向ける選択ほど、私達は余裕があるのだろうか? 環境問題しかり、少子化問題しかり、食料の欠乏しかり、エネルギー危機しかり。こうした問題をさておいて、一部の人間だけが肥え太るのだろうか。
単刀直入に「おかしいな」と気づかないほど、長年掛けてやられてきた、孤立化と知的貧困、無気力化の果てだろう。
私は1960年代に、自然破壊の進行は、人間を死地に追い込むと確信したが、今、結果を見れば、それは必ずしも正しくなかった。もっと複合的な怠惰が死地に追い込んでいるのだ。しかし私個人に限って言えば、自然との関係を考えることが、社会と向き合う糸口になった。これは今も続いている。また沖縄との出会いも、社会と政治に向き合う糸口になってきた。
惜しむらくは、もう少し単刀直入に進みたい。社会と向き合うという話しは、なかなか複雑系であり、守備良くいかない。複雑系だからこそ、意外な連帯が生まれてもいいはずだが、視点・論点を掘るだけではなく、糸口を磨く感度を拓かないと難しいのだろう。
昨日の嘉数高台公園に、ある沖縄の大学生グループが,研修にきていた。カメラを持っている私を見て、「防衛局ですか」と言われて,私は憤慨した。認識はこんなに平板なのだ。彼ら、彼女らには、軍事を市民の側から見る、平和の為に考えるという視点がないようだ。歴史を学ぶことは、机上では無意味だし、フィールドワークでやってすら届かない。沖縄在住の市民としての想像力が働けばと願うばかりだ。
こういうときのために、一言、私は市民のための軍事研究の意義を語りたい。しかし、虚を突かれた。ただ一般市民にとって,軍事はできれば避けたい話しだし、難しいから身近に感じたくないのだろう。そこで軍事力が何をやっているのかを知らずに、「ウルサイな」だけでは済まないはずだ。かっての沖縄戦の事を考えれば、明解なのに、ギャップがありすぎるのだろうか。もうそこに迫ってきているんだが。どうにも私が糸口を掘り下げていくしかないようだ。「歴史は繰り返す」の轍を踏みたくないものだ。(続く)