ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

【拡散願います】私たちの新年の旅は、長崎から(20230108)

2023年01月08日 | 歴史から学ぶこと

 私たちの2022年の新年の旅は、広島へ行った。今年2023年は、長崎に行った。これから長崎報告を書く予定だ。しかし旅の報告が、小難しい説明ばかりになってもつまらない。事前に解説的な長崎考をまとめたい。参考になれば幸いだ。なお以下の文責は私個人にある。

(Ⅰ)何故、廣島であり、長崎なのか?
①簡単に言えば
 私たちは、1500kmも離れた場所に住んでいる。沖縄(名護市)と東京(23区)。どちらかに行く手もあるが、お互いが「旅気分」になりたいからだ。地理的にも偏らず、経済的な負担も概ね公平になるように配慮した先が長崎だった。
 私たちは、廣島の原爆(被爆)、長崎の原爆(被爆)に関心を持ってきたし、もっている。被害のみならず、加害にも。また、広島市の近くに岩国基地(米国海兵隊・海軍、海上自衛隊)があり、長崎の近くに佐世保基地(米国海軍、海上自衛隊)がある。共に沖縄(基地群)との縁は大ありだ。大あり過ぎるのが、悩ましい。新年の旅では一旦そこは置いておく。

➁長崎市について(以下長崎に絞って書く)
 長崎市は1945年8月9日、米国によって被爆地にされてしまったが、中世以来海外からの交易等が栄え、維持されてきた、特異な街だ。日本の近代化を推し進める契機を孕んだ街だった。長崎と言えば「カステラ」が余りにも有名だ。他方、キリスト教伝来の地でもあり、宗教弾圧(被弾圧)の地だ。
 私は無信仰だが、弾圧に耐え忍び、抗い、信じるものを堅持する人々を尊敬する。長崎の地はこうした血が刻印された街なのだ。被爆地に留まらない縁を感じる。

③長崎と沖縄について
 沖縄に住んでいる私は、長崎県と沖縄県についても考えてしまう。共通点は海に囲まれており、島が多いことだろう。長崎県は対馬を挟んで朝鮮半島に近い。沖縄県は中国・台湾に近い。これは余談だが、私は長崎新聞の取材も受けたことがある。
 本論に入る前のひとこと。長崎は被爆地であり、沖縄は沖縄戦の惨禍を受けてきた。この共通項を外せない。だが似たもの同士でもない。もっと深く繋がるべき間柄だろう。私は勝手ながら、そう考えている。

(Ⅱ)長崎市と沖縄
①沖縄戦と原爆
 沖縄戦は1945年3月26日~6月23日…。最終的には9月7日とされている。原爆が廣島に投下されたのは1945年8月6日、長崎は1945年8月9日だった。しかし被爆者たちも沖縄戦の被害者たちも、戦争の痛み・苦しみから死ぬまで解放されなかっただろう。これは共通項と言えるだろう。家族が根絶やしにされた事例が多いことも共通している。
 ただし、一発の爆弾による原爆は、余りにも巨大な加害/被害を弾きだした。爆風・熱線・放射線。次世代への被害も生み出した。科学技術の力の総合的な破壊力。冗談じゃない!
 沖縄戦はどうだろう。こちらは地上戦を中心としたありとあらゆる総力戦。天皇と軍隊への忠誠が強要された精神主義(死ぬまで戦え。戦えない奴は自決しろ)の惨禍が地域や家族を巻き込んだ。
 廣島で約12万人が殺され、長崎で約7万人がそれぞれ1年以内に殺された。沖縄では約20万人が殺された。共通項は、殺された者の大多数が一般市民だった。特に原爆被害はそうだった。

➁沖縄戦と原爆(2)
 沖縄戦は、攻める側の国家、守る側の国家それぞれの思惑があった。米国を中心とする連合国は、沖縄島を占領し、大日本帝国を降伏させるための出撃基地にすることを狙い、守る側の大日本帝国は、天皇制護持のための時間稼ぎの戦争だった。勝利の展望がゼロでも、沖縄住民を巻き込み、ひたすら突撃が繰り返され、「自決」が強要された。天皇制国家による不合理のオンパレードだった。
 原爆投下は米国の一方的な攻撃だった。しかし、既に反撃能力を完全に奪われていた大日本帝国だったが、まだ降伏していなかったからやられたことは否めない。何故降伏していなかったのか?!(敵・味方の力量を弁えず、往生際が悪すぎる。―本件については別途考えたい) 
結果として廣島と長崎に原爆が投下された。その時の天候のせいもあり(晴れ間が出た)、そこに巨大な軍事産業があったことが標的にされた理由のようだ。

③米国は何故日本に原爆を投下したのか?
 ここは、これまで多分に論点から外されてきた。何故米国は原爆を使ったのか? 単純に言えば、核爆弾をつくりあげたからだ。無差別攻撃になることを百も承知の上で、使ってみたかったのだろう。
 そもそも原爆製造計画はあのアルバート(英語読みードイツ語読みではアルベルト)・アインシュタインがルーズベルト大統領に書簡を発し(1939年8月)、対独戦に備えるために原爆の製造を提案。これが米国をして原爆製造に向かう国家をあげた「マンハッタン計画」となり、1945年7月に完成。時、既にドイツ降伏(45年5月)後だった。だから日本に投下したのか? 1944年9月18日、フランクリン・ルーズベルト大統領とウインストン・チャーチル英国首相の会談で、「日本人に対して使用されるかも知れない」と合意していた(ハイドパーク覚書)。人種的偏見が日本への原爆使用を促したのだろう。
 米国は未だに原爆使用の「根拠」として、原爆を使用せずに大日本帝国を降伏させるためには、自軍100万人が犠牲になったと説いている。しかし45年7月段階で、大攻勢をかけずとも、兵糧攻めにすれば、陥落は決定的だったのに、原爆を使用したのが米国だ。
 何故そうなったかを明らかにしている文書は残されていないようだ。しかし2つの要素を私は考える。米国・米軍は、せっかく作り上げたのだから、どさくさに紛れて、人体実験を行ないたかったのだ。特に放射線の影響を見極めることは、実験室内では限度がある。実戦と実験。こうして戦争の中で人間は「悪魔」になっていく。
 ここに2つの事実が残されている。米国は占領下の日本で、核爆弾に関する情報を伏せるためにプレス・コードという情報管理体制を整えた(「原爆 表現と検閲」堀場清子著 朝日新聞社 1995年刊)。核被害の実態を隠蔽し、米国の支配下に置いたのだ。
これは、今の「日米地位協定」に繋がっているだろう。占領下から始まる米軍支配の研究は色々あるが、オキナワとヒロシマ・ナガサキを重ねた研究はあるのだろうか。私は今書きながら気づいたことだ。オキナワは軍事基地の継続した自由使用が目的だが、ヒロシマ・ナガサキの目的は何だろう。核管理の優先使用であり、原爆投下後も原爆の影響は継続しており、核開発・管理の遺漏なき把握のためだろう。こうした基礎があり、原爆投下から原発輸入が始まったことは周知の通りだ。「核の平和利用」の大嘘。
 話を戻す。そして米国はABCC(原爆傷害調査委員会)を結成し、被爆者をモルモットにし、治療なき調査研究に励んできた。米日共同の研究所は未だに広島にあり、研究が続けられているようだ(詳細は「米軍占領下の原爆調査」笹本征男著 新幹社 1995年刊)。
そして第2の理由は、米国は自由主義陣営対全体主義陣営の勝利の上に「戦後」を見据え、次の戦略は対ソにありと考えた。それはヤルタ会談を見れば、はっきりしている。
 1945年2月11日。クリミヤ半島(あのウクライナ)のヤルタでの秘密会談。ルーズベルト米国大統領、チャーチル英国首相、スターリンソ連最高指導者(元帥)が集まり、以下の協定を結んだ。
ドイツ降伏の2,3ヶ月後にソビエト連邦が連合国に与して、以下の条件で日本に参戦する。(A)外蒙古の現状は維持せらるべし。(B)1904年の日本国の背信的攻撃(引用者註:日露戦争)により侵害されたロシア国の旧権利は左の如く回復せらるべし。イ 樺太の南部及びこれに隣接する一切の島嶼はソビエト連邦に返還する、ロ(略)、ハ(略) (C)千島列島はソビエト連邦に引き渡されるべし。(以下略)
 米英はソ連に恩を売りながら、対日攻撃(陥落)の一角に据えることを促した。これで日本攻略の最終的な準備を固め、沖縄戦に突入していく。米軍が長崎に原爆を投下した8月9日、ソ連軍は「満州国」に突入し、植民地の「開拓民」を蹴散らしていく。米国はソ連に「あめ玉」(「北方領土」)を与えながら、核爆弾の脅威を誇示したのだ。当時のソ連は核非保有国だった。その後、核軍拡競争が始まっていく。なお、米国による沖縄占領は、「北方領土」とのダブル支配となったことも看過できない問題だ。
 「日本の都市への原子爆弾使用によるアジアでの戦争の早期終結は極東におけるソ連の軍事的進出を最小限に止めるための、また戦後日本の占領において予想されるソ連による分け前要求に対処する必要を回避するための手段を、トルーマンに与えることになるのである」(「原発と核抑止の犯罪性」浦田賢治編著 日本評論社2012年刊 所収論文「核抑止の犯罪性」フランシス・A・ボイルから引用)
暴力による争いは、暴力を拡大することはあっても、暴力を抑止できないことがよくわかる指摘となっている。
 そしてロシアによるウクライナ戦争が勃発し、継続している現状は、国際法(同法を機能させうる諸法)が戦争を押さえる力をもてるのか否かまだ定かでないものの、一般人を無差別に殺害することは、様々な国際法で禁止されている。私たちはこの事実を沖縄でも広島・長崎でも叫び続けていかねばならない。

(Ⅲ)まとめとして
 この国は、ヒロシマ・ナガサキを受けてなお戦後78年間、米国による「核抑止力」を頼りに歩んできた。明白な矛盾を直視することなく、米国に付き従ってきたのだ。この事実は日本国民にも当てはまる。1971年沖縄が日本国に返還されるために核爆弾メースB核弾頭1300発が沖縄外に持ち出された。
 しかし再び沖縄内外に核ミサイルが配備される可能性を帯びてきた。対中戦争が準備されているからだ。核戦争になれば世界は破滅する。この事実は米国も中国も重々承知している。だからこそ、米国は日本国を中国の首に匕首(ミサイル)を突きつけろと迫ってきたのだ。現代の日中戦争ならば、米国は破滅を免れるだろうと踏む。周到だが、安直な米国の態度に私は呆れかえるのだ。
 しかしこの日本国は、米国様に従順なままだ。「敵基地攻撃能力」をこのまま認めてしまえば、地上から洋上から同ミサイルは飛び出していくだろう。持てば使いたくなる心理。軍拡競争で勝てるという傲慢。米国様のガードがあれば、何していても大丈夫というノホホンぶり(過信・慢心)。
 私は琉球諸島を戦場にさせないために全力を尽くすと同時に、被爆国である日本国が核兵器禁止条約を実直に締結し、中小の多くの非核保有国と共に核廃絶を目指すべきだと考える。私たち人類が生き延びるためには、ナショナリズムを超えなければ、早晩自滅する事態に見舞われよう。地球史的な歴史を考えるならば、無数の生き物たちを殺害し、のほほんとしているならば、やはり自滅していくだろう。この10年が最後の生きるか反るかの時間となるだろう。
 私は、若者たち、子どもたちと生き直す時代を作り上げていきたいと願っている。長崎への道は、そのための第一歩になったのだろうか。堅苦しくは考えたくない。微かでもそこに近づきたいものだ。



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