山口洋子さんが亡くなった。2022年5月13日未明。この知らせは、同日朝私に届けられた。このことが昨日、沖縄タイムスに「現場から新基地反対訴え続け」と、でて、大変驚かされた。
洋子さんと私は、10歳違い。私が辺野古テント村にボランティアスタッフとなって以来(以前からここで知っていた)、日々お会いしていた。洋子さんは、2004年、沖縄防衛施設局前で新基地建設反対を掲げてハンガーストライキを21日間も敢行した人物だ。
私がそうした足跡を知ったのはテントでだった。ご本人は、直接ハンガーストライキを語ることはなかった。ただ、日本国憲法が大好きなお姉さんだった。そして私に問うてきた。「どうしたら止められる?」「何故『辺野古が唯一』なの?」と。ほぼ毎日だった。「そんなこと国に言ってよね!」と思いながら押し問答が毎日のように繰り返されていた。
洋子さんは1999年に東京から宜野湾市に引っ越し、2014年頃、辺野古に引っ越してきた。こだわりを地で行くタイプだった。しつこいのは、嫌みではなく、ただ一途なのだ。原点は戦争体験だ。だから護憲派。1997年米日新ガイドライン(軍事指針)が締結される過程で、「51年目の新しい憲法のはなし」(洋々社刊)を編集していた。
この中で、沖縄の意見も求めたようだ。どなたかのご紹介で新川明(ジャーナリスト)さんにお願いしたようだ。結果、「お断り」の手紙が掲載されている。曰く「私は一人の『沖縄人』として、『日本国憲法』が『天皇を国民統合の象徴』としている限りにおいて、この憲法を、自らの生存の根本理念とすることに同意できないからです」と。
これを読んだ洋子さんは、ガ・ガーンという衝撃を受けたようだ。洋子さんが受けた衝撃は、天地をヒックリ返した。沖縄へ! ここから新たな洋子さんが始まった。確かに沖縄では、日本国憲法は無視されていると気づいたようだ。だから私に。
当時の私は、戦争・戦争体験、憲法・護憲、沖縄・安保をトリプルで問う意義を十分把握していなかったようだ。今思えば、お互いの発想が噛み合っていなかった。
こう考えると「生前のご厚情」等では言い表せません。私たちに宿題を与えてくれた洋子さん、改めて討論しよう。合掌。(2022/5/19)