ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け35年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

【重要・拡散願います】コロナ禍での憲法問題を考える(20210506)

2021年05月06日 | 考え直すために

 コロナ禍が続いている中でも、新基地建設等の工事が止まらない。それどころか病床数を削減する動きも止まらない。このドサクサに紛れて、改憲を進めようとしている自公政権。私たちは嘗められており、このままでは蹴倒されてしまう。

 日本国憲法の第25条に[生存権、国の生存権保障義務]が定められている。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあり「②国は、全ての生活側面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と明記されているのだ。

 歴代の自公政権は、こうした憲法条項を無視・違反しながら、新自由主義を金科玉条として、保健所や病院を削減してきた。このコロナ禍が拡大している中でも、これを見直さず、それどころか罰則で対処しながら、緊急事態条項を憲法に入れ込もうとさえしている。すでに行政優位の国家統治機構になっているが、国家主体の上からの国造りは、独裁を進め、軍事国家への動きと一体化しているのだ。

 そこに入る前に、私は憲法第25条にふれておきたい。私はかって福祉事務所でケースワーカーをやっていた時代がある。生活保護行政のワーカーだ。このとき大変驚かされ、矛盾を感じ、苦しんだ。生活保護行政こそ、憲法第25条が示す「最低限度の生活」を物質的に保障し、人として生きるに値するソーシャル・ミニマムを保障する仕組みのはずだ。問題は、その最低限度の生活が低すぎるばかりでなく、保護を受給した人に人権なしのような「処遇」が行われていた(いる)。私のように受給者に寄り添おうとすれば、「余計なこと」「早く切れ」と上司から叱責され、嫌がられた(1975年から1983年)。

 しかし生保受給者も日本国憲法第11条以下の基本的人権を行使する権利主体だ。ここに1ミリの相違もあってはならない。働ければ働いて収入を得て、生保基準額との差で、保護支給額は決まってくるが、これすら福祉行政に強制されるものではない。第12条に「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない(濫用の禁止も規定されている)」とあり、第13条は「全て国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」とある。

 私がこれらの問題を何故取り上げるかと言えば、今進んでいることは生活保護行政の枠をはるかに飛び越え、憲法第25条の枠を切り縮めながら、コロナ対策ならぬ、コロナ禍の拡大を誘発させている状況をつくりだしているからだ。基本的人権を侵害し、相互の監視社会化を進めてすらいる。音楽や映画、お芝居などの興行に介入しながら、金銭保障もしない。明らかに憲法第13条等に反しているのだ。

 さて、2014年に閣議決定した集団的自衛権の合法化は如何様にやられたのか? 以上との関係を探ってみよう。

 その前に1972年10月に政府が出した「集団的自衛権と憲法との関係について」をまずみておこう。冒頭に「国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力を持って阻止することが正当化されるという地位を有しているとされており、国連憲章第51条、日本国との平和条約第5条(などで中略)そして我が国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。

 ところで、政府は従来から一貫して、我が国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界を超えるものであって、許されないとの立場に立っているが(中略)、憲法は、第9条において(略)、また第13条において(中略)、我が国が自らの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことはあきらかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うする為に必要な自衛の措置を取ることを禁じているとはとうてい解されない。しかしだからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右に言う自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむおえない措置として初めて容認されるものであるから(中略)我が憲法の下で武力行使を行う事が許されるのは、我が国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる(後略)」と集団的自衛権を認めていなかった。

 ただ私が気になることは、基本的人権は諸個人に属することだが、「我が国が自らの存立を全うし」となると国家の上から見ることになり、真っ向からこの両者は対立する。1972年当時の政府解釈は、1945年に沖縄が強いられた「自国の軍隊=皇軍」が沖縄の人々を統制し、死地に追い込んだ体験を全く考慮に入れていない矛盾に満ちたものだ。現実の戦争が如何なるものであるかを考察し、諸個人の基本的人権を守り抜く一貫した態度を貫けなければ、こうした矛盾にはまり込んでいくのだ。今は2021年。こうした矛盾の、矛盾の中に私たちは置かれているのだ。

 2014年の解釈換えはこうなっている。今回は「①外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し」に、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」を入れたのだ。

 「我が国と密接な関係にある他国」とは米国などのことだろう。この米国は世界最大の軍事大国であり、これまでもイラク戦争の場合のように戦争を仕掛けてきた。こうした場合でも「我が国は」集団的自衛権を行使するのか? 米国の指揮下で出撃しかねないのだ。まして今日の菅自公政権は、現在のコロナ禍でも、国民の生命、自由、幸福追求の権利を全く無視しており、こうした高等な判断を冷静にできるとは考えられないのは、私ばかりだろうか。

 そして今更のように気づいたのだが、当時の安倍政権が色々と条件を付けたのでご安心をと言っていたが、他国への攻撃から、我が国の存立が脅かされる様な事態は、ひとまず朝鮮半島と中国しか考えられないだろう。まして中国に対しては「島嶼防衛」のかけ声を掲げ、着々とその周辺(与那国島、石垣島、宮古島、奄美大島、馬毛島(種子島)に新たに基地を建設し、全国的な軍事網をつくりつつあるのだ。何処が「専守防衛」なのか。今、露骨に敵基地攻撃能力を整えつつある日本という国なのだ。

 沖縄が再び戦場となるこうした動きを私たちは、断じて許してはならない。1972年当時の日本の国家のあり方と現在の国家のあり方の大変貌ぶりを考え、有事法(戦争法)が整えられてきたことを考えなければならない。繰返すが、諸個人の権利を国家の下に押さえ込み、操る動きは、正にファシズム誕生の直前にきているのではないか。

 私は憲法問題、軍事問題を歴史的に総括しながら、より正確に吟味することが重要なテーマに浮かび上がっていると、改めて考えている。

 

 



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