私は7月27日夕方から石垣島に行き、28日夕方から31日与那国島に行ってきた。28日夜テレビをつけたら、オールオリンピック報道に埋め尽くされていた。オリンピックが視聴率を稼げるのか、挙国一致のハレの国際(ナショナルな)賛歌なのか知らないが、私はただただ呆れ果てる。テレビがもつ一極集中の力を畏怖する。市民には、どうしようもないかのようだ。
オリンピックに関心が無いのは、私の勝手だ。スポーツ嫌いであり、「金銀銅」をどれだけとったのかを競い、誇示するだけの活動を私は決して好きになれない。オリンピック一色にしてしまうこんな報道に、私は付き合いきれない。即刻テレビを消した(時々、他に何かやっていないかとつけても殆どがオリンピックだった)。選手一人一人の頑張りにも興味がない。国家を挙げた国家賛辞の式典での頑張りだからだ。選手一人一人の思いとは別の動きに縛られているだろうからだ。ナショナリズムに人類の明日を任せられないと私は考えているからだ。
こうした「平和の祭典」の陰で、何が行なわれているのか? ロシアとウクライナ(NATO諸国)の間で、イスラエルとパレスチナの間での戦争、虐殺、米日と中国の間での睨み合いー共同・統合演習。こうした事実を無視しない限り、「平和の祭典」は成り立たない。スポーツがこうした事実を塞ぐならば、やはり勝ち負け至上主義のスポーツは、戦争と身近なところにあると考えざるをえないのだ。
帰宅して5日目になって、7月28日に行なわれた外務・防衛担当大臣の日米閣僚会議(2プラス2)が行なわれた報道を読んだ(7月29日記事など)。「日米核抑止力を強化」とのタイトルが踊っていた(沖縄タイムス3面)。1面に「米軍事件の情報共有」とあり、こちらは沖縄ベースの報道になっている。今詳細の分析をしている暇が無いが、この核抑止力の強化と米軍事件の情報共有の前に広がる断絶は、巨大過ぎる。米日の軍事力の同盟の前に、諸個人の人権などないのが、軍事の世界だ。軍事とは人を殺し、モノや文化、心を破壊するモノだからだ。この断絶の修復は、ありえない。少なくとも今のような日米政府の姿勢が続く限りないだろう。オリンピックもこうした矛盾を隠す祭典ではあっても、和解に導くものでは、ないだろう。
ここで私は気がついた。何故沖縄で九州でRD(レゾリュート・ドラゴン)24米日共同統合演習が7月28日から始まったのか。なぜ「2プラス2」がこの日に行なわれたのか。オリンピック報道の陰に、両国(米国主導)の思惑を隠したいからだろう。せこい奴らだ。愚図としか言いようがない。
と考えれば、今沖縄に暮らす私達は、何処を向くべきなのか? 足下から何が平和に通じているのかを一から、確認し広げていくことだろう。「米軍事件の情報共有」とは、軍事当局の都合で行なわれるのだ。私たちは、ひとりひとりの人権の立場から、ひとりひとりが生きているところから考えるしかない。私たちは国家の論理に押しつぶされない生き方を選び取りたい。私たちを覆う全体主義の力は、人類滅亡行進曲を伴うモノになるだろう。
明日が8月6日だ。8月9日も近い。原爆も沖縄戦もあらゆる虐殺も人類が行なった。だからこそ、私たちは戦争状態を疑い、国家悪を否定していけるのかが問われているだろう。
核兵器禁止条約に背を向けて、広島平和記念式典が開催されます。どんなに「平和」の言葉を並べても、虚しさだけが残る「平和記念式典」です。実際、「平和祈念」ではないのだと思います。
創刊0年の地平社の月刊『地平』9月号に掲載されている「テレビ局における報道の壊滅をめぐって」匿名座談会の中で、テレビ局は問題が起きないように延々と天気とスポーツだけをやっている、との発言がありました。妙に納得しました。納得しただけでは何も解決しませんが。
「平和」の言葉に騙されることなく、「平和」の内実を問い質し続けなければなりません。