ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

「共同テーブル」の記者会見、集会をみて思うこと(20210831)

2021年08月31日 | その他の論考

 昨日、「共同テーブル」が開催した記者会見(2021年8月18日)と集会「いのちの安全保障を考える」(2021年8月28日)をネットでみた。合わせると4時間もあった。

 「共同テーブル」といわれても、何それだよね? 私が気にして見たのは、私のところにも賛同のお願いが来ていたからだ。結果的に私は賛同しなかった。社民党系の呼びかけなのだが、何をしたいのかが不鮮明。社民党応援団をつくるか、もっと政治的なしかけをめざすのか、研究集会なのかが不明。

 私はそもそも沖縄のオの字もないものに、賛同しない。無論、全く別のテーマならば、そうはならないが、政治の「共同テーブル」に、オきなわがないのだ。それでも色々考えた。知り合いが多数、呼びかけ人になっているし。結局やめた。

 だから見た。まだ海のものとも山のものとも判別できない。多様でありたいのだろうが、カオスすぎる。今という局面でこれでは、おいつかないよ。10年先のことを考えるのか。否、100年後、1000年後も見据えなければならないが、今どうするが見えないものでは、無意味だ。ここを抜きに100年後、1000年後はないだろう。

 いのちの安全保障を実現出来る政治勢力を提起するのであれば、もっとシンプルにそう言えばいい。だいたい「安全保障」という概念が、国連安保理を想起して嫌だ。力のあるものが力任せにごり押しする。そうじゃないと佐高真らは言っており、たしかにそうじゃないのだろうが、イメージ悪すぎる。

 人を集めなければ、実行力のある集団は生まれない。そこに「いのちの安全保障」は、不適切だろう。堅すぎる。いのちをコンクリートや鉄筋で固めるみたい。防衛省がやっている大浦湾のサンゴをもいで砕いて、合成接着剤でくっつけるイメージか。

 いのちを守るとはケア労働があって、相互的なものだ。公助を重視する事が重要だが、その公助には人の権利を尊重することを土台に据えるべきだ。ケア労働の認識が足りていない。

 28日の集会(無観客)では、山城博治ほか沖縄の声が届けられた。しかし一人6分だとか。無茶だ、こんなの。博治は、「島嶼防衛」が、第2の対中戦争になると警鐘をならしていた。その通りなのだが、今沖縄から言うべきことは、これだけではたりない。こうしたことは、今に始まったことではないし、沖縄を切り捨ててきた日本全体の問題だと、せまらなければ、意味がない。伝わらない。5、6分じゃ無理だよ。だいたい金城実(彫刻家)さんがでてきたが、音声の調子が悪く、結局、司会が切ってしまった。デジタル放送をフォローする態勢をとらずに、短時間でやってしまおうとする安易さ。「日本」の傲慢さが露呈した。

 他の発言者は、憲法学者の植野妙実子さんが護憲について、ジャーナリストの竹信三恵子さんが不正規労働のこと、講談師の神田香織さんが福島の原発事故のこと。そして山城博治だ。別個の問題をただ出してもかみあわない。かみ合わせる議論を展開できなければ、「共同テーブル」にならない。

 共産党のような綱領的一致でないのは、いいとして、それなりの方法が「共同テーブル」らしく誂えられず、自己主張(たった6分だが)だけで終わり。これでは実あるものにはならないだろう。

 私は賛同しなくてよかった?



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