ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

2021年9月1日朝を迎えて(20210901)

2021年09月01日 | その日暮らし

 おはようございます。今日もぐだぐだ自宅にいます。昨日から「今後に向けて」(非公開)のような文書を書いています。非公開の文ですから、ブログ等には出しませんが、今後の私の基調提起です。

 思えば、今までにも私はこうした類いの文を何度も書いてきました。それがどれだけ自分のために、社会のために役立ってきたのかわかりません。ただ自分史をつなぎながら考えることは、とても重要です。うまくいったこともあれば、いかなかったこともきちんと総括することが大切です。なぜか、どうすればいいのかと。結論はでていなくても、大切なことを書き留めておく。

 文そのものは、お渡しする人を除き非公開ですが、基調はすべての方々に何らかの形で明らかにされていきます。で、書くに際して、一番苦労していることは、時間の流れの中で、「何がどうして」の何が、が錯綜しており、これを整理しながら書かないとわかりづらい。自分自身。この文は基調ですから、今後考えを深めていくための文。その意味でも軸足の取り方を定めておかないとならない。

 そんなわけで私の沖縄暮らしの第2期が始まる。沖縄と関わって、第6期となることを、昨日確認しました。32年間だから、単純に割ると1期6年余り。

 沖縄における軸足について一言書いておく。基軸・軸足・視点と、いうが、いづれにしてもミクロなものからマクロなものまである。時空間を貫いて。ミクロなものは、自分の視界内で見えること。低空飛行は、なぜあちこちでおこなわれているのか。これだってよほど気を向けていない限り見えてこない。

 こちらは下から時々見上げているだけだが、あちらは上から見ている。肉眼でも電子機器でも、監視カメラに映像を撮りながらも。どこまで撮っているのか知らないが、高度150mを切っていれば、プライバシー丸出しにさらされる相当な解像度だろう。災害などの時に写るあれだよね。それが普段からやられているわけだ。

 私は、望遠レンズを人家に向けないが、奴らはこのようなものをターゲットに向けている。急襲するターゲット、ミサイルを撃つターゲットです。こんなことが日常的にやられている。

 ここまではわかっても、実際は見えないことが多い。遠いし速いし、瞬間だから何しているかわからない。こうしたことを不断に意識していないとならないのだ。疲れる。花が鳥が綺麗だ、かわいいと言っている隙にかすめていく奴ら。傍若無人。

 アフガン戦争20年の結果、再びターリバン政権に戻る。「武力で平和は作れない」と私たちは言ってきた。哀しいけれど、これが現実。米国政権、日本政権も学習能力がゼロだ。せめて、失敗を糧にしなければ、人類は奈落の底に落ちていく。これは、米国や日本国だけじゃない。国家に規定されている人類まるごとだ。この殻をどう破るかだ。これまでの歴史の中で、被抑圧民族も一旦勝者に成り上がれば、同じ愚を繰り返す。とほほだ。

 人類まるごと絶望したら、おしまいだ。個は如何なる境地に立てるのか。個は個でしかないし、だから自立が重要なのだ。堂々巡りの議論になるが、考え始めることが大切だ。可能性はそこにしかない。

 小田急線内でおきたフェミサイドも、硫酸ぶっかけ事件もひどい話だ。前者は不特定多数、後者は特定の「後輩」をターゲットにした。思い込みが暴発した事では共通性があるだろう。暴力性は私を含む誰もが大なり小なりもっている。かわいくないのが人類なのだ。

 戦争をたきつけるのも、たきつけられるのも、こうした人類の「弱点」がねらわれる。戦争の芽はこういうところにあるのだ。

 考え始めることに可能性がある、というのが、70年生きてきた私の結論か? これを虚無だと思うのか、実存だと思うのか? 私は後者だと信じたい。

 



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